武相荘
武相荘(ぶあいそう)とは、東京都町田市にある白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅。 現在は「旧白洲邸・武相荘」として、記念館・資料館となり一般公開されている。 館長は白洲夫妻の長女・牧山桂子。武相荘の名の由来は、白洲次郎のユーモアから「武蔵の国と相模の国の境に位置する」ことと「無愛想」を掛けたもの[1]。敷地面積約2,000坪。 沿革武相荘の歴史は1942年(昭和17年)10月、白洲夫妻が当時の東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入した事に始まる[1]。その数年前から白洲夫妻は、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探しており[2]、当時の使用人の親戚が鶴川村で駐在をしていた縁で購入した[3]。当時の次郎は日本水産・帝国水産統制株式会社(後のニチレイ)役員であったが、職を全て抛ち、退職金を注ぎ込んで購入した。内部は荒れていたため当初は東京市新宿区水道町(現在の東京都新宿区)にあった自宅から通い、ゆっくり修理すればよいと考えていたが、戦況の悪化に伴い1943年5月に正式に転居。自給自足の農民生活を始める。次郎41歳、正子33歳だった。水田と畑があり[2]、以後の次郎は終戦まで専ら農作業に勤しんだ。 当時から次郎は「カントリージェントルマン」を自称。敢えて中央の政争や喧噪から距離を置き、地方に在住しつつ中央の情勢に目を光らせるという英国貴族の考え方で、これはケンブリッジ大学留学時代の学友で生涯の親友である、7世ストラトフォード伯爵ロバート・セシル・ビングの影響が大きいと言われている。 1943年、戦火を免れるため梅若流の能面・衣装など先祖伝来の品を預かる[4]。 1945年から2年間、東京大空襲で焼け出された河上徹太郎夫妻と同居[1]。以後も親交を深める。正子は、このことをきっかけに青山二郎や小林秀雄と知り合う[1]。正子は、武相荘での暮らしを『鶴川日記』に描いている[1]。「自伝抄 鶴川日記」というタイトルで「読売新聞」1978年7月から2か月連載したものがまとめられ、1979年に出版されている[1]。 敗戦後、次郎は吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任してGHQとの交渉や日本国憲法制定、通商産業省(現在の経済産業省)設立に尽力し、政界引退後は東北電力会長などを歴任。正子は青山二郎や小林秀雄との交流を通じて骨董・随筆家として活躍するが、夫妻とも亡くなるまで武相荘を住まいとした。 展示萱葺き屋根の母屋・納屋など、ほぼ全域が公開されており、次郎・正子の書斎や家族の居間、家具や持ち物、写真類、次郎手製の調度品や実際に使った農機具などが展示されている。次郎・正子関連書籍や記念品の販売もあり、喫茶や弁当類の予約も可能。
アクセス
エピソード
武相荘を取りあげた番組
脚注
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