青山二郎
青山 二郎(あおやま じろう、1901年(明治34年)6月1日 - 1979年(昭和54年)3月27日)は、日本の装丁家・美術評論家・数寄者。骨董収集鑑定でも著名であった。 人物1901年(明治34年)東京市麻布区新広尾町1丁目(現:東京都港区)にて、精力剤のオットセイ丸で財を成した資産家の家に生まれた[1][2]。幼い頃から絵画や映画に興味を持ち、自らも画才を発揮した[1]。中学生の頃から焼き物・骨董品蒐集にも興味を持ち、1927年(昭和2年)26歳の若さで実業家・横河民輔の蒐集した中国陶磁器2000点の図録作成を委託されるなど、その鑑識眼は天才的と評された[1]。 1930年(昭和5年)舞踊家の武原はんと結婚し、麻布一の橋に所帯を構え、作家の永井龍男が隣りに越してきたのを皮切りに、小林秀雄、中原中也、河上徹太郎、三好達治、大岡昇平ら文学仲間が出入りするようになり、青山を中心とする集いは「青山学院」と称された[1]。その他にも北大路魯山人、宇野千代、白洲正子、加藤唐九郎、秦秀雄など多彩な面々と交流し、その高等遊民的な生き方は多くの作家によって語られている[1]。 経歴東京市麻布区新広尾町(現:東京都港区)に青山八郎右衛門・きん夫妻の次男として生まれた[3]。 1909年(明治42年)4月飯倉小学校に入学[3]。小学校時代、水府流(古式水泳)の泳ぎを習得、毎夏、三浦三崎にて過す[3]。 麻布中学在学中から絵画や陶器に親しみ、中国・朝鮮や日本の焼き物を探求した。 1919年(大正8年)4月日本大学法学科に入学[3]。しかし大学へは通わず、東京帝大で開かれた奥田誠一主宰の「陶磁器研究会」に通う[3]。 若き日に柳宗悦や浜田庄司たちの民藝運動に参加するも、やがて柳たちが提唱する民藝理論に矛盾を感じ離れていった[4]。 1924年(大正13年)以降、柳の甥の石丸重治[注釈 1]と雑誌『山繭』に関わり[注釈 2]、そこで小林秀雄と運命的な出会いをする。骨董を愛玩する中で鍛えた眼で本質をずばりと見抜き、ときに手厳しい批評を行った。酒席で親友の小林を幾度も泣かせたといわれる。 自宅には小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平といった文人たちが集い「青山学院」と呼ばれた。白洲正子、宇野千代なども弟子に当たる。 青山が後見人だった、銀座の美貌のホステス坂本睦子については、自らも彼女の愛人だった大岡昇平がモデル小説『花影』を執筆し、青山がモデルとなった人物も登場する。 晩年は高級マンション「ヴィラ・ビアンカ」(神宮前、1964年竣工)で暮らし、静岡県伊東市に別荘を設けた。 昭和54年(1979年)3月27日、自宅にて死去。法名は春光院釋陶経。 家族・親族青山家
親戚
著書
編書
共編著
挿絵
関連書籍
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |