正宗得三郎正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう、1883年(明治16年)8月22日[1] - 1962年(昭和37年)3月14日[1])は、日本の洋画家。 経歴岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる[1]。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる[2]。1902年(明治35年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した[1]。のち洋画に転じ、同年9月に東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科に入学[1]。1907年同校を卒業[1]。在学中より青木繁グループに属す[2][3]。1909年(明治42年)文展入選[1][3]。 1914年(大正3年)から1916年(大正5年)および1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて、ヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ[3]。この時アンリ・マティスにも学んだ[2]。この間、1915年(大正4年)前年に創立したばかりの二科会会員となる[1]。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われて、二科会創立メンバーの石井柏亭ら5人が官選という形で美術院会員となったため二科会を離脱。美術院の会員に選ばれなかった正宗[4]は、会を存続させて重鎮として活躍した。東京都中野区東中野にアトリエを構えていたが[2]、1945年(昭和20年)、空襲によりアトリエを焼失し作品の多くを失った[2]。 1947年(昭和22年)、1944年(昭和19年)に解散した二科会に代わり、1947年(昭和22年)熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した[1]。晩年は富岡鉄斎の研究を行った[1][2]。 1962年(昭和37年)3月14日、脳軟化症により死去[1]。墓所は多磨霊園。 家族
代表作
脚注
関連項目外部リンク
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