歌川芳春歌川芳春
歌川 芳春(うたがわ よしはる、文政11年〈1828年〉 - 明治21年〈1888年〉2月5日)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。 来歴歌川国芳の門人。本姓は生田、名は幾三郎。歌川の画姓を称し一峰斎、一梅斎、一橘斎、朝香楼と号す。 もとは旗本の子で三男として本所に生れる。父は御小納戸役で生田皆右衛門と云い、幼少の頃皆右衛門の兄の養子となる。当時若手の人気役者四代目中村芝翫の舞台を見て自分も役者になりたいと思い、人を介して芝翫に弟子入りを申し込んだ。しかしこれが養父の知るところとなり、養父は怒って幾三郎を禁足にし、禁足となってすることがない幾三郎は、役者の似顔絵を描いて過ごした。これを見た養父は役者になられるよりはと、幾三郎が23歳の時に国芳の門人にさせたという。 浅草茅町に住み、のち明治12年に浅草並木町、その翌年には栄久町に住む。初名は一梅斎芳晴と称し、慶応の頃に芳春と改名している[1]。作画期は弘化から明治20年代頃にかけてで、美人画や武者絵のほか「仏蘭西大曲馬」、「蒸気車」などといった開化絵、玩具絵、読本の挿絵などを手がけている。晩年は大阪で此花新聞の挿絵を描く。三年後東京に戻り、京橋築地二丁目に住んでいたが病気により没す、享年61。戒名は芳雪院春誉一梅居士。息子に市川莚十郎、門人に歌川春富、歌川春中がいる。 梅素玄魚、仮名垣魯文、落合芳幾、歌川芳州、新井芳宗、若菜屋島次、久保田彦作らと交友をもっており、魯文による「芳春があかくなると愚痴はやみ」という句が残されている。 作品
脚注
参考文献関連項目 |