桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体:櫻內 辰郞、1886年(明治19年)3月13日 - 1954年(昭和29年)11月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。
1928年、東京府1区から立憲民政党に属し衆院議員に選出され、次期選挙にも当選した[3]。1947年には東京都から参院議員に当選、国民民主党最高委員を歴任[3]。
経歴
鳥取県西伯郡米子町(現米子市)で生まれた[4]。島根県士族・櫻内和一郎の二男[5]。櫻内家は江戸時代、広瀬藩松平家の家臣だった。廃藩の頃、櫻内家にはいった松平家からの頂戴金と士族に対する政府の御下げ渡し金を資本にして父・和一郎はあれこれと事業に手を出したが、うまくいかず次第に食いつぶしてしまった[6]。
辰郎は早稲田大学政治経済科で学んだ(1930年に推薦校友となる)[1]。亀崎銀行に入り、常務取締役に挙げられた[7]。興國銀行取締役を経て、日本人造絹絲会社を創立し常務取締役に就任した[7]。櫻組工業、日本コナミルク各会社取締役となった[4][7]。このほか大連株式商品取引所理事長、百軒店土地建物[7]、東海ラミー紡績、桜内商事各社長なども歴任した[3]。
1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に旧東京都第1区から民政党公認で立候補し初当選、2年後の第17回衆議院議員総選挙でも前回同様旧東京都第1区から民政党公認で立候補し2度目の当選。戦後平和日本確立連盟理事長、東邦石油、朝鮮産金、日本興産各社長を歴任[8]。1947年(昭和22年)参議院議員に当選した。参院予算、大蔵、外務各委員長を務めた[3]。
1954年(昭和29年)11月14日死去、68歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、従四位に叙される[9]。墓所は多磨霊園(7-1-5)
人物
趣味は読書[1]。宗教はキリスト教[1][5]。クリスチャンである[10]。住所は東京市芝区車町[7](現・東京都港区)。
家族・親族
- 櫻内家
- 親戚
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 武内真澄『実話ビルディング 猟奇近代相』宗孝社、1933年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 東京篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 『政治家人名事典』日外アソシエーツ、1990年。
参議院外務委員長 (1950年 - 1951年) |
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参議院大蔵委員長 (1948年 - 1950年) |
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第1回 (定数8) |
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↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。 |