櫛橋伊定
櫛橋 伊定(くしはし これさだ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。 生涯名は『寛政重修諸家譜』に、黒田孝高室の父「櫛橋豊後守伊定」と記載されており、また櫛橋家[1]に伝わる諸資料でも同様の記載がある。一方で『黒田家譜』などの他史料では名を則伊[2]とするものも多く、この時期の櫛橋氏当主の事績には混乱が見られる。 天文10年(1541年)、父・櫛橋伊家が死去したのを受けて櫛橋家の家督を継ぐ。しかし、伊定はまだ若年であったため、初めは家臣の好田大炊助が執権となったという[3]。 同時代史料に「櫛橋伊定」という武将の活動は見られず、代わりに櫛橋政朝(まさとも)の名が登場する。政朝は「豊後守」「豊後入道喜伴」[4]を名乗っており、播磨守護赤松氏の家臣であった事はわかっているが、この政朝と伊定の関係性は不明。また赤松氏の系図に櫛橋伊則という人物もいるが、これは義理の縁戚に当たる人物であり[3]、伊定とは別人である[5]。 居城の志方城は当時東播磨に勢力を持った別所氏の勢力圏内にあって、1万石余りを領していた[6]が、一方で西播磨の有力者・小寺氏とも縁戚関係を結んでおり、娘の一人・光は、同国姫路城主でかつ同国御着城主・小寺政職の重臣だった小寺孝隆(のちの黒田孝高)の妻となっている。観音寺の墓碑によると伊定は天正元年(1573年)に没したとされる。 なお志方城は天正6年(1578年)に侵攻してきた織田軍と交戦して落城しているが、落城時の城主が誰であったかについては諸説あり、伊定とも伊定の子・政伊であったともいう。またその末路にも複数説が存在し、降伏して助命された、密かに遁走した、戦死・自害した、子と袂を分かって織田方についていたと文献によって一定しない。 子孫いずれも櫛橋家に伝わる「櫛橋家系図」による。
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