橋口勇馬橋口 勇馬(はしぐち ゆうま、1862年4月13日(文久2年3月15日[1]) - 1918年(大正7年)1月11日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴薩摩藩士・橋口伝蔵の息子として生れる[1]。陸軍士官学校幼年生徒、士官生徒を経て、1883年(明治16年)12月25日、陸士(旧6期)を卒業し歩兵少尉任官[2][3]、近衛歩兵第4連隊付となる[1][4]。1894年(明治27年)11月、歩兵大尉に進み近衛歩兵第4連隊中隊長に就任[1]。1897年(明治30年)5月、参謀本部出仕となる[1]。清国差遣を経て、第5師団司令部付となり、1901年(明治34年)4月、歩兵少佐に昇進[1]。参謀本部付、近衛歩兵第4連隊付、同連隊大隊長を務め、1904年(明治37年)1月、清国差遣となり諜報活動に従事[1]。兼大本営付を経て、1904年7月、満州軍総司令部付となり日露戦争に出征し、馬賊を用いてロシア軍の後方攪乱を行うなどの戦功を挙げた[1][5]。1905年(明治38年)3月、歩兵中佐に昇進[1]。 1905年12月、参謀本部付となり、関東総督府付、歩兵第54連隊付を経て、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に進級し歩兵第62連隊長に就任した[1][6]。歩兵第40連隊長を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍少将に進み歩兵第13旅団長となり、シベリア出兵の際には満州里の居留民保護に従事した[1][2][6]。1917年(大正6年)8月に待命となり、同年12月、予備役に編入された[1][2][6]。 栄典
親族脚注
参考文献 |