横田吉光
横田 吉光(よこた よしみつ、1949年6月15日 - )は、青森県出身の元騎手。 息子は横田茂調教助手[1]。 経歴デビューから1970年代1969年3月に中山・古賀嘉蔵厩舎からデビューし、同1日の東京第1競走4歳未勝利・ハクミノル(17頭中16着)[2] で初騎乗を果たすと、23日の東京第3競走4歳以上70万下・ダイハチマサルを初勝利を挙げる[3]。 1年目の1969年は8勝、2年目の1970年には初の2桁となる19勝をマークし、1972年まで3年連続2桁勝利を記録[4]。 3年目の1971年にはアラブ王冠(春)を8頭中8番人気のハシイワオーザで制し、枠連万馬券[5]で重賞初勝利を飾る[6]。 1972年にはノボルトウコウで東京4歳ステークス2着[7]、1973年にはユウシオでタケホープを抑えて東京4歳ステークス2着[8]、サンポウでカブトヤマ記念2着[9]に入った。 1974年には2年ぶりの2桁となる10勝[4]、1975年には2年連続2桁の15勝[4]をマークし、1975年から1977年にはスカッシュソロンとのコンビで活躍[10]。 1974年11月10日の東京第3競走3歳新馬ではダイヤモンドアイに騎乗し[11]、4コーナーから外に逃げて、一頭だけ大外のラチ沿いを猛然と伸びてきたカブラヤオーを抑えて勝利[12]。 スカッシュソロンでは1975年11月に不良馬場で行われた東京ダート1200mの新馬戦を勝利すると、暮れの葉牡丹賞では11番人気の低評価を覆し、1976年初戦の新春4歳牝馬ステークスではテイタニヤを抑えるなど年を跨いで連勝[10]。福永洋一に乗り替わった阪神4歳牝馬特別も制して連勝し、横田の手綱に戻った本番の桜花賞では1番人気に支持されたが、7着に敗れた[10]。1977年は金杯(東)5着、福島大賞典3着を経て、安田記念を制覇[10]。 1978年には九州産馬・ニシノオーカンでアラブ王冠(春)では9番人気ながら後にタマツバキ記念春秋制覇のリョクシュ[13]に3馬身差付けて勝利し[14]、アラブ大賞典(秋)では前年のタマツバキ記念馬ニシヤマチェス[15]をハナ差抑えて[16]重賞2勝目[17]を挙げた。 1978年と1979年には後にアラホウトクの母となるビンゴモレロに騎乗し、1978年12月10日の中京第7競走恵那特別では18頭中18番人気で勝利し単勝万馬券[18]の波乱を呼び、1979年2月25日の中山第10競走総武特別では18頭中16番人気で勝利した[19]。 1980年代1980年から1985年には6年連続2桁勝利を記録し[4]、1981年にフリーに転向すると、1983年には春の小倉と秋の福島でギャロップダイナに騎乗[20]。 1984年には七夕賞で矢野進厩舎の9歳馬ダイトフドウを16頭中14番人気ながら4着[21]に入り、自身初の20勝台となる22勝[4]をマーク。 1985年には目黒記念で13頭中11番人気のロベルスポートを3着[22]に導いたほか、ローレルスポットで南関東・大井の勝島賞と全日本アラブ大賞典に騎乗し[23]、2年連続20勝台で自己最多の23勝[4]をマーク。 1986年には新潟記念で13頭中12番人気のウメノフリートを2着[24]に導き、1987年8月23日の新潟第9競走豊栄特別では9頭中9番人気のミスナイヤガラで2着に入って枠連万馬券[25]を演出。 1988年には9月3日の新潟第6競走4歳未勝利を12頭中11番人気のニイタカヤマで逃げ切り[26]、同18日の新潟第8競走4歳以上400万下では14頭中14番人気のシュタインローズで勝利[27]するなど3年ぶりの2桁となる16勝[4]をマーク。 1990年代1990年には江田照男から乗り替わったサファリオリーブで福島記念4着[28]に入り、2年ぶり最後の2桁となる10勝[4]をマーク。 1992年には10月17日の福島で自身最後の1日2勝[29]を挙げ、1993年5月2日の新潟第10競走長岡特別では9番人気のドンミロードで勝利し枠連・馬連万馬券[30]を演出。 1994年3月12日の小倉第12競走4歳以上500万下・スカーレットアモンが最後の勝利[29]となり、同年5月28日の東京第7競走4歳未勝利・アースライト(18頭中17着)を最後に現役を引退[31]。 騎手成績
脚注
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