森公挙森 公挙(もり こうきょ、1902年〈明治35年〉2月6日[1] - 1979年〈昭和54年〉1月2日[2])は日本画家。京都画壇の重鎮で「明治の応挙」と評された森寛斎の孫で、京都を中心に活躍した[2][3]。 人物京都府福知山市出身[3]。本名は愛一[4]。祖父は日本画家の森寛斎、父は日本画家の森雄山[5]、子は病理学者で兵庫医科大学名誉教授の森芳茂、孫は心理学者で甲南大学名誉教授の森茂起。 16歳の時、祖父寛斎の弟子であった山元春挙の門に入り、円山派を修得する[2][3][6]。その後、団体に属さず、無所属で制作活動を続けた[2]。 花鳥・風景・人物画を得意とし、京都で活躍した[3]。祖父寛斎の鑑定家としても有名[3]。山口県立美術館に祖父寛斎に関する数多くの資料を寄贈した[7]。京都市左京区に住した[3]。 前立腺がんのため、京都大学医学部附属病院で死去した[2]。享年76歳。 脚注
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