森雄山森 雄山(もり ゆうざん、1869年〈明治2年〉 - 1917年〈大正6年〉12月27日[1][2][3][4])は明治中期から大正初期に活躍した日本画家。 京都画壇の重鎮で「明治の応挙」と評された森寛斎の孫で、後に養子となって跡を継いだ[1][2][3][5][6][7][8][9][10]。 人物京都に生まれる。日本画家の森直愛(実父は大西喜兵衛)の子。本名は勇太郎[10]。 祖父にあたる森寛斎に師事して円山派を学び、養子となって寛斎の跡を継ぐ[1][2][3][5][6][7][8][9][10]。 寛斎の没した明治27年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に《深山遊猿》で三等褒状を受賞し、翌28年の第4回にも《昇旭住友図》で再び三等褒状を受賞した。また29年の後素協会の発足には委員を務めた。明治30年の第1回全国絵画共進会では四等に入賞している[1][2][3][8][9]。 森派の得意とした動物画をよく描いた[1]。 脚注
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