梅津政景日記

梅津政景日記』(うめづまさかげにっき)は、江戸時代初期の久保田藩(秋田藩)家老・梅津政景の日記。原本は21巻25冊から成るが、16巻下は佐竹家に献呈された後に散逸してしまった[1]。それ以外の24冊は秋田県公文書館に所蔵されており、東京大学史料編纂所秋田県庁国立史料館等に写本(16巻下を含む)が所蔵されている[1]

記述は政景が院内銀山奉行に就任した慶長17年(1612年)2月28日から、政景の死の4日前である寛永10年(1633年)3月6日まで、およそ20年間にわたって書き綴られている[1]。原本の保存状態はおおむね良好だが、一部表紙などが破損している他、慶長18年(1613年)、元和元年(1615年)、元和9年(1623年)の記述が欠落している[1]

政景は初代藩主・佐竹義宣に抜擢され、院内銀山奉行、惣山奉行、勘定奉行、家老と累進した人物であり、日記には公私にわたる出来事が記録されている。長らく銀山奉行として辣腕を振るった人物の日記だけに、鉱山経営に関する記述が豊富である。久保田藩の藩政のみならず、当時の武士や庶民の生活を検証できる史料としても貴重である。後の佐竹義峯の書状によれば、慶長年間には藩の記録所に収納されていたようで、仕置の際の先例・判例として重んじられ、久保田藩のいくつかの史料でも引用されている。

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d 大日本古記録 梅津政景日記九”. 東京大学資料編纂所. 2022年4月24日閲覧。