梁瀬次郎
梁瀬 次郎(やなせ じろう、1916年〈大正5年〉6月28日 - 2008年〈平成20年〉3月13日)は、日本の実業家。位階は従四位。勲等は勲二等。 梁瀬自動車株式会社社長、株式会社ヤナセ社長、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任した。 概要東京府出身の実業家である。父親・梁瀬長太郎が設立したヤナセグループの経営を引き継ぎ、自動車輸入の最大手企業に発展させた[1] 。アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続く5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした[2][3]。『自動車を斬る』(実業の日本社)など著書多数。 来歴生い立ち1916年生まれ、東京府出身である[4]。1923年に関東大震災が発生し、父の郷里である群馬県碓氷郡豊岡村(現高崎市)に避難した。のちに麹町小学校、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部(旧制)にて学ぶ。1939年、慶應義塾大学経済学部を卒業し、梁瀬自動車に入社した。 実業家として1941年には取締役として名を連ねた。なお、この年に梁瀬自動車は梁瀬自動車工業に商号変更している。 1945年、再び梁瀬自動車に商号変更した。同年、社長に就任した。なお、それまで社長として会社を率いてきた梁瀬長太郎は会長に退いた。 1970年にはヤナセに商号変更しているが、次郎は引き続き社長を務めた。1985年、稲山孝英に社長の座を譲り、次郎は会長に就任した。しかし、1987年になると、社長を務めていた稲山が副会長に退くことになり、次郎が会長のまま社長も同時に兼務することになった。1997年、稲山が再び社長に就任することになり、次郎は会長のみ務めることになった。2004年には米国の自動車殿堂入りを果たした。2008年3月13日、肺炎のため東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院で死去、91歳没。 人物
家族・親族梁瀬家について、次郎によれば「梁瀬家の先祖は甲州武田家の遺臣だった[8]。武田勢が戦いに敗れた時、群馬県まで逃げ高崎の一歩手前の豊岡村に土着した[9]。二十数代[9]、代々農業、精米、養鯉などを家業としていた[9]。父が私をしかる時に『お前は武田勝頼以下だ[9]。お前の顔など見たくない[9]』とどなった[9]」という。また、母について、次郎によると「母ちゃう(利子)は群馬県多野郡多胡村大半地(現・高崎市吉井町 )で生まれた[9]。母の祖父は群馬県で一番のたばこの栽培業者で、いわゆる吉井のお大尽だった[9]。黒沢家は相場の失敗、浪費によって身代を失い母は上京し浅草の府立第一女学校に通い卒業後父と結婚二男五女をもうけた[9]」という。また、次郎の妻は、明治政府外交官津田五郎の長女であった。次郎の長女は、元経団連会長稲山嘉寛三男稲山孝英の妻となった。次郎の二女は、元鹿島建設会長鹿島守之助長男昭一の妻となった。なお、下記以外にも係累縁者が多数存在するが、ここでは次郎の親族に該当する著名人のみを列挙した。
系譜梁瀬家
略歴
賞歴
栄典
著作
脚注
参考文献外部リンク
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