栗原博之栗原 博之(くりはら ひろゆき、1956年 - )は、日本の企画演出家/CMディレクター/クリエイティブディレクター。 日本映画監督協会会員(2015年〜) 経歴東洋シネマを経て、1987年フリーになる。独立後、JALのPR/CMをメインにおよそ10年間、企画演出を行う。 1990年代、JAL(企業21世紀向けて篇・It’SJAL篇・SKYPLUS篇・JALで行くTDL篇 )他多数 その間、様々な業種を手掛けるようになり、1990年〜2000年代ミリオンパワー(モキモキ篇)、アメリカオンビデオ(床屋篇)、会津大学(「開設」篇)、宝くじ(「女神伝説」篇)、くろがね学習デスク、アートネイチャーキャンペーン、コジマ電気シリーズ、ぺんてる(「ハイブリッド/修正液/企業」篇)、講談社雑誌えくぼシリーズ、その後、生保/サントリー飲料/不二家/おもちゃ・各種ゲームソフト/不動産/そしてTOYOTAのプロモーションをメインに演出している。 なお、日本国内にとどまらず、海外での制作も多く、米国/欧州/台湾/タイ/上海と、現地スタッフとの共同制作も多い。 2003年度は、台湾で大手飲料メーカー「統一」の豆乳のCMを台湾の制作会社と行う。 そして2006年度は中国上海で東芝のCMを中国スタッフと制作。 日本国外での撮影制作活動は多岐にわたる。 1979年4月〜81年2月 株式会社BBプロモーション 制作部入社 TV東京「話題の医学」の演出・制作を3年間担当。日本全国の病院や大学を取材、またスタジオで医学博士などを招いて番組収録。さらに、医学/薬品のPR映像、および学会用映像も制作。また、障害者用教育ドキュメンタリー映画、劇場用映画「大どろぼうホッツェンプロッツ」では、ともに文部省推薦をいただいた。 1981年3月〜83年3月 三友工業株式会社システム業務部 入社 システムエンジニアとして、NEC(日本電気)に出向。NTTの料金徴収システムのプログラムを担当。このプロジェクトは他社を含め、おおそ300〜500名で構成、日本電気田町本社とNTTの三鷹公社にてその第一次プログラムを作成し納品。 1984年4月〜84年11月 株式会社東洋シネマ 入社 企画・演出部に入るも即、第一制作部にてJAL(日本航空)のPM(プロダクションマネージャー)AD(アシスタントディレクター)として日本と海外の撮影制作を担当。多いときでは100人以上の内外のスタッフと共に、ハワイ、アメリカ、ヨーロッパと、CMおよびPRの撮影や制作をこなす。この間海外での出張が大半を占める。なお、日本にいるときは日清製粉や鈴木自動車など他の制作も行う。この年第一制作部独立のため、是を機に、本来の企画・演出として退社。フリーランスとして海外の仕事をこなす。 1985年5月〜89年4月 東京ミュージックテレビジョン株式会社 入社 取締役プロデューサーとして、MTV(ミュージックテレビジョン)の日本語版を担当。また、海外の番組の買い付けも行う。 そして、ファッションブランドBIGIの映像プロモーションを担当。YOSHIE INABA 、MELROSE、MOGAなどの春夏コレクション映像やCMなどを制作。なお、この間にも自身の企画・演出の作品もつくる。 1989年4月〜2003年3月 主に自身のマネージメントを行うため、有限会社ケース・ワン設立。 代表取締役ディレクターとして、JAL(日本航空)を中心にCMやPRを多数制作。予算や制作状況に合わせ、海外スタッフとの撮影や制作も多く展開。内外スタッフは作品により多いときでは300人を超えるときがある。この間依託業務が大半で自身以外は外部スタッフにて構成され、その管理も重要な業務におけるポイントとなっていた。およそ14年を得て、当社を解散。 2003年4月〜 再びフリーランスの企画・演出として独立。 企業PR/CMを中心に企画から立ち上げ、プレゼンテーション、演出、制作まで全てを担当する。つまり映像作品を中心に広告/宣伝をトータルに行うCD(クリエィティブディレクター)としての全体を見る仕事が多くなった。 なお、予算管理や制作進行のプロデューサー的役割も同時に兼ねることも多々あります。最近は、PR/CMだけでなく広報・マーケッティング的な企画やコピーライティング、通販番組の企画構成、さらに、各種デジタル映像の企画や演出、制作も多くなっています。 CM
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