林忠交
林 忠交(はやし ただかた)は、上総請西藩の第2代藩主。忠英(若年寄、上総貝淵藩初代藩主)の四男。 生涯天保3年(1832年)、貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる[1][注釈 1]。兄忠旭の養嗣子となる。嘉永7年(1854年)4月27日、兄の隠居にともなって家督を相続し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。安政4年(1857年)閏5月に大番頭、安政6年(1859年)8月には伏見奉行となった。慶応2年(1866年)1月23日、坂本龍馬を捕縛しようとするも失敗(寺田屋遭難)。慶応3年(1867年)6月24日、奉行在任中に伏見にて死去した。享年35[3]。家督は甥の忠崇が継いだ。 江戸城大奥筆頭老女(上臈御年寄)であった万里小路局は元治元年(1864年)に引退すると、宿元であった請西藩の江戸浜町の藩邸に住んだ。 系譜父母 正室
子女 養子
脚注注釈出典 |