松永浩典
松永 浩典(まつなが ひろのり、1984年2月24日 - )は、長崎県長崎市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 経歴プロ入り前長崎市立蚊焼小学校、長崎市立三和中学校を経て長崎海星高等学校に進学した。 2000年秋季九州大会でエースで4番を務め、投打にわたって活躍し4強入り、注目を浴びるようになる。翌2001年春の第73回選抜高等学校野球大会に出場し、初戦で仙台育英学園高等学校と対戦。試合は仙台育英の左腕エース・芳賀崇との投手戦となったが、延長10回の末に3-4でサヨナラ負けを喫した。なお、仙台育英はこの大会で準優勝している。夏は長崎大会3回戦で諫早高校に4-5のサヨナラ負けを喫し、春夏連続出場はならなかった。 高校卒業後は社会人野球の三菱重工長崎に入社し、前年にプロ入りした杉内俊哉の背番号18を受け継ぎ、「杉内2世」とも呼ばれた。入社早々から投手としてオープン戦に登板機会を与えられ、細身ながら130km/h前後の速球と80km/h台のスローカーブを繰り出し、社会人の強打者を相手に思い切りのいい投球を披露した。その後、トレーニングの成果で逞しくなり、球速が145km/hを記録するなど球威もついてきたが、肩や手の故障もあり伸び悩んだ時期もあった。2005年には一時外野手転向も考えたが、投手出身の牧瀬寅男監督から投手続行を勧められ、思いとどまった。社会人4年目を迎えた同年は思い切りのよさが戻り、JABA岡山大会、JABA九州大会では優勝に貢献するなど春先から好投が続いた。都市対抗野球大会、社会人野球日本選手権大会では目立った戦績を残せなかったが、素材の良さを買われて、同年の大学・社会人ドラフトにおいて希望枠で西武ライオンズ入団が決定した。 西武時代2006年は序盤に2度先発したがいずれも4回途中で降板し二軍落ち。しかし再昇格した夏場に存在感を見せ、8月3日の千葉ロッテマリーンズ戦にて、6回1死までを1失点、8奪三振の投球を見せ、プロ初勝利を挙げた。続く登板では完投勝利を挙げ、先発ローテーションに加わり、ルーキーながらプレーオフ第2戦で先発を任されるという信頼も勝ち取った。しかし、左打者相手には3割打たれた。同年、二軍の優秀選手を受賞している。 2007年は左腕エースの帆足和幸がケガで出遅れたため開幕から先発ローテーションの一角として期待され、初登板で好投し2年目の飛躍を期待させた。しかしそれ以降は安定感を欠く投球が続き、一軍登板は7試合にとどまった。29回1/3を投げて19四球を記録するなど、防御率こそ2.45だったが、6度の先発のうち4度は5回までに降板するなど、失点は少なくても序盤で交代させられることが多かった。 2008年4月18日、高校時代から9年にわたり交際していた女性と結婚したことが報じられた[1]。同年は二軍で規定投球回に達するも、一軍登板は無しに終わる。しかし、日本シリーズ出場選手登録枠の40人には選ばれた。 2009年は開幕時は二軍スタート、主に4月中と8月以降シーズン終了までは一軍で中継ぎとして投げるが防御率は5点台を記録。この年プロ初セーブをあげる。 2010年は前年から登板試合数を大きく減らす。シーズン終盤から秋季キャンプにかけ、やや腕を下げたフォームにモデルチェンジしている。 2011年は主に6月から8月半ばまで、2012年はシーズン通して一軍で投げ中継ぎ陣の一角を担った。 2013年の春季キャンプ中に左肩を痛め、シーズン途中に手術した[2]。 2014年、10月7日に球団から戦力外通告を受けた[3]。12月2日、自由契約公示された[4]。 現役引退後引退後は株式会社トラバース(チームメイトだったG.G.佐藤の実父が経営する測量会社)に入社し、福岡営業部に所属していた。 2022年に故郷である長崎県の水産会社に入社し、シマアジや真鯛などを販売する直売店の店長に就任した[5]。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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