松平康済

松平 康済(まつだいら やすずみ、寛永9年(1632年) - 宝永5年6月1日1708年7月18日[1])は、江戸時代旗本福釜松平家の分家・松平右京家の初代。初名は康経。通称は権十郎、傳次郎、三郎左衛門[1]右京[要出典]

松平康盛の四男。母は松平忠実の娘。妻は横井時村の娘。子に康共忠一五井松平家分家・松平則采の養子)・康春三好政敬三好勝政の養子)・娘(阿部政等妻)・娘(鳥居忠丘妻)らがいる。

慶安4年(1651年)9月29日に徳川綱重の家臣となり、桜田の館に勤める。その後、書院番組頭・書院番頭・小姓組番頭を歴任する。宝永元年(1704年)に徳川家宣江戸城西の丸に入った際に付き従って小普請となった。宝永5年(1708年)6月1日、77歳で死去。法名は常英[1]

脚注

  1. ^ a b c 『寛政重修諸家譜 第1輯』国民図書、1922年、p.21。

 

Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia