東郷実友
東郷 実友(とうごう さねとも)は、江戸時代後期の薩摩藩士。東郷平八郎の父。 宗旨は禅宗。父の実家の親族である篠崎七郎左衛門正心より水野流居合を学び、皆伝す。家格初め御小姓与。のち一代小番。 経歴文化2年(1805年)8月16日?、東郷重弘の次男・重友を家祖とする東郷家6代目当主・東郷実愛の子として誕生。天保10年(1839年)、郡奉行見習になる。 嘉永4年、島津斉彬の藩主就任以来初の入国に御供する。なお、当時徒目附であった[1]。 弘化4年(1847年)、郡奉行になる。安政6年4月、島津斉彬が指宿で行った井戸の増設を記念する碑を指宿郷(現在の鹿児島県指宿市)の上山氏や郡奉行所の同僚とともに二月田温泉に建る。文久元年(1861年)12月、藩に指宿郷の防砂事業に関する上申書提出。 文久2年(1862年)、5男四郎左衛門を除く子息とともに薩英戦争に出陣。実友、山川郷(現在の指宿市山川町)の山川砲台に配置され、子息らは鹿児島城下藩主本営に詰める。元治元年(1864年)3月、高奉行になり一代小番に昇格。後年、納戸奉行になる。 慶応3年(1867年)6月11日、平八郎と四郎左衛門が分家する。慶応3年(1867年)11月20日、鹿児島城下で死去。 家族・親族
備考実友は終始、方正勤直をもって聞こえた。また識見が有り、海外事情を注視して外国船の無礼を憤っていた。実友の詠んだ和歌に、「異国の船 くつかへせ 諸人の祈る 誠を知れよ神風」というのがあった。 「鹿児島城下絵図散歩」では、現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町に東郷吉左衛門宅地があった。広さは267坪。なお、「聖将東郷全傅」では東郷吉左衛門宅についての記述あり。記述は以下のとおり。
なお、東郷家の家屋は西南戦争で焼失したという。また、隣近所に伊東茂右衛門祐之が住んでいた。 脚注
参考文献
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