村松志孝村松 志孝 (むらまつ しこう、明治7年(1874年)6月14日 - 昭和49年(1974年)5月1日)は、山梨県出身の郷土史家。漢詩人。号は蘆洲。 略歴山梨県八代郡市川大門村(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に、父「与左衛門(基廣)」、母「はな」の長男として生まれる。出生地市川大門の私塾「修齊(しゅうせい)学舎」で岡部千仭に漢学を学び、「峡南英和学館」で町田柳塘から漢詩文を修めた。明治28年(1895年)に上京、二松学舎に入学し三島中洲に漢詩文を学び、明治33年(1900年)に帰郷後「南陽学舎」を設立し院長として私学経営を始めた。その後、明治42年(1909年)に再上京し東京の自宅を事務所とした「顕光閣」と称する出版社経営を始めている。 峡南英和学館時代の師である町田柳塘が明治43年(1910年)10月に『山縣大弐』、明治44年(1911年)12月に『武田信玄』を出版するにあたりその資料収集に奔走協力したこと。また、自身が経営する顕光閣から発刊されたことが、村松の郷土史研究を始める契機であったと云われる。 山縣大弐を祭神とする山縣神社[1]創建にあたっては創建計画に深く関わるなど、山縣大弐の専門家の一人として関係著書を執筆しており、昭和3年(1928年)には私財を投じて山縣大弐の映画製作を行っている。また、柳宗悦が山梨県内で木喰仏に出会い[2]その後の研究を進める中で、研究、調査に協力し、柳が発刊した雑誌『木喰上人之研究』に関わるとともに、同誌の発刊を目的として発足した「木喰五行研究会」の設立発起人の一人となっている。 昭和23年(1948年)には山梨郷土研究会の初代理事長(昭和23年(1948年) - 昭和32年(1957年))に、昭和41年(1966年)4月からは西八代郡、南巨摩郡、中巨摩郡南部の郷土研究家の先達により発足した峡南郷土研究会[3]の初代会長を務めるなど、郷土研究の進展に尽力し、昭和29年(1954年)には山梨県文化功労者、昭和43年(1968年)には山梨県政功績者として表彰されている。 著作
親族脚注
|
Portal di Ensiklopedia Dunia