杉山公平
杉山 公平(すぎやま こうへい、1899年6月23日 - 1960年2月21日[2][3])は、日本の撮影技師である。 人物・来歴1899年(明治32年)6月23日、静岡県浜名郡浜松町(現在の同県浜松市)に生まれる[2][3]。 東京に移り、旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業[2]、1920年(大正9年)、巣鴨の国際活映にスチルカメラマンとして入社[1]、1922年(大正11年)、撮影部に転向し[1]、同年、田村宇一郎監督の『噫新高』で撮影技師として一本立ちした[4][5]。環歌子や阪東妻三郎らが在籍した時代であったが[4]、翌1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で首都の撮影機能が停止、環らとともに関西へ移住した。杉山は東亜キネマ甲陽撮影所に移籍し、1924年(大正13年)、本山裕児監督の『熱血の洗礼』から同社での撮影をはじめている[5]。 1925年(大正14年)、帝国キネマ演芸芦屋撮影所に移籍、岡田時彦・森静子が主演した志波西果監督の『幸福』や、おなじく古海卓二監督、悪麗之助脚本の『行路』のカメラを回す[5]。同年、同社の内紛で設立された東邦映画製作所の第1作、伊藤大輔監督の『煙』の撮影を務めるが、同社は早晩に崩壊し、杉山は東亜キネマの等持院撮影所に移籍している[5]。おなじく等持院に移籍した悪麗之助監督の『恋を賭けた武士』等を手がけるうちに[5]、女形から映画監督に転向した衣笠貞之助に見出され[1]、衣笠が設立した衣笠映画聯盟に参加、衣笠監督の前衛映画『狂つた一頁』の撮影を務める[1][5]。以降、同聯盟の最終作『十字路』までの21作の撮影技師を務め、終生のコンビとなった[1][5]。 1928年(昭和3年)、衣笠の渡欧後、衣笠映画聯盟が製作提携をした松竹下加茂撮影所に移籍、『狂つた一頁』の助監督であった小石栄一監督の『剣の血煙』や、冬島泰三監督の『鳥辺山心中』等のカメラを回した[5]。1930年(昭和5年)、衣笠が映画監督に復帰すると、同撮影所で『黎明以前』でコンビも復活した[5]。 1941年(昭和16年)末から1942年(昭和17年)にかけての溝口健二監督の『元禄忠臣蔵 前篇・後篇』の撮影技師を務めた後[5]、満洲にわたり、満洲映画協会の技師長となる[1]。同協会では、木村荘十二監督の『蘇少妹』の撮影技師を務めた[5]。 第二次世界大戦後は、1947年(昭和22年)、吉本プロダクション製作、東宝配給、『縁は異なもの』で石田民三監督作のカメラを回し、長谷川一夫の新演伎座製作の映画を撮影したのち、1950年(昭和25年)ころから、新演伎座の提携先である大映の京都撮影所に所属した[2][5]。 1951年(昭和26年)、吉村公三郎監督の『源氏物語』で第5回カンヌ国際映画祭撮影賞を受賞する[2]。1954年(昭和29年)、杉山が撮影技師を務めた衣笠貞之助監督の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞[2]、アカデミー賞名誉賞も受賞した[6]。同作は、日本初のイーストマンカラー作品であった[1]。 1959年(昭和34年)8月23日公開、田坂勝彦監督、勝新太郎主演の『鳴門の花嫁』を最後に[3]、1960年(昭和35年)2月21日、死去した[2][3]。満60歳没。 おもなフィルモグラフィ
註
外部リンク
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