本庄近朝
本庄 近朝(ほんじょう ちかとも、生年不詳 - 天正18年5月25日[1](1590年))は、戦国時代の武蔵国児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市出身)の武将。本庄城城主。官途名を隼人正(はやとのしょう)。 略歴本庄実忠の嫡子として生まれた。 天正8年(1580年)に父実忠が没すると家督を継ぎ、本庄城城主となる。この時、北条氏に服属していた近朝は、家督を継いでから1か月も経たぬうちに東上州に進出して来た武田勝頼の侵攻を受けた。のち織田信長の家臣である滝川一益が厩橋城に入ると、周辺の諸侯と同様に滝川に服属した。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で倒れると、勢力を回復したい北条氏が侵攻してきた。北条氏邦が鉢形城から金窪城へ進軍し、小田原から出馬した北条氏直は本庄に本営を置き、富田、石神に布陣した。北条氏側諸侯と滝川一益側の諸侯はは金窪原で合戦(神流川の戦い)となった。本庄氏は滝川軍に属して北条軍と戦うが、滝川軍が破れた結果、再度北条方に降る事となった。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、本庄城には前田利家が攻め寄せた。関東の北条氏方の諸侯には、軍を動員して小田原城籠城に参加する命が出されており、本庄氏一門も北条氏の居城である小田原城に籠城していた。豊臣氏の包囲の前に小田原城は開城し、近朝は開城後に自害した。家督を継いでから10年目の事であった。 手薄であった本庄城も5月(7月)27日には開城した。こうして、時家から続いてきた武蔵国(児玉党系)本庄氏は終焉を迎えた。 生き残り策元々、本庄氏は本庄信明の代から代々山内上杉家に属していた。しかし本拠地である本庄の、武蔵国の北西部国境沿いと言う地理上、戦国の世では有力な諸大名に板挟みされる結果となった弱小勢力の近朝が、従属対象を二転三転したのは必然的な流れである(上杉憲政→北条氏→上杉謙信→北条氏→滝川一益→北条氏)。 その後の本庄天正18年(1590年)に徳川家康が関東を支配することとなった。9月、家康の家臣である信濃国松尾の小笠原信嶺が本庄の新城主として1万石を配領した。範囲は、八丁河原、新井、都島、小島、杉山、山王堂、沼和田、田中、仁手、本庄、五十子、東富田である。本庄城は小笠原氏によって改築され、本庄藩が立藩される事となった。しかし17世紀初期には廃藩となり、以降は江戸幕府の政策により、本庄は中山道の宿場町として重要視され、武家の城下町から商人の町に変化して発展した。 評価
備考
脚注
参考文献
関連項目 |
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