本多忠烈
本多 忠烈(ほんだ ただつら)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩の第5代藩主。 略歴正徳6年(1716年)、第3代藩主・本多忠直の3男として郡山にて誕生。母は石井氏。幼名は喜十郎。 享保7年(1722年)、兄で先代藩主・忠村の夭逝により跡を継いだ。しかし幼少であることを理由に、所領を5万石にまで減らされた。このため、家臣団280人(306人とも)の解雇が行われ、屋敷などの大々的な取り壊しも行われた。 享保8年(1723年)11月27日、江戸で死去した。享年8。継嗣がなく、郡山藩(忠常流)本多家は断絶し改易となった。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。 |