木暮理太郎木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年12月7日 - 1944年5月7日)は、日本の登山家。 概説群馬県新田郡強戸村大字寺井(現・太田市)生まれ。旧制第二高等学校卒業、東京帝国大学文科大学中退。田部重治と共に、詳しい地図がまだ作成されていない探検時代の日本アルプスや秩父山地に入り、これらの山々の魅力を世に紹介した。単に山に登るだけでなく、山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示し、人文的な「山岳研究」というべき分野を開拓したパイオニアの一人である。著書『山の憶い出』は日本の山岳書中でも内容の濃い傑作とされる。明治末期から大正にかけて、東京市内の各所に通いつめてまとめた「望岳都東京」(『山の憶い出』所収)は、東京から見える山々を初めて詳しく明らかにした文章として知られている。職業としては、雑誌『ハガキ文学』や東京市の史料の編纂に携わった。 1935年12月、日本山岳会の第3代会長に就任した。登山しては書き、何より山が好きという人で大衆登山家に支持された。田部重治と共に静観派の指導者であった。 1941年1月に日本山岳会が社団法人認可されると、社団法人日本山岳会の初代会長に就任した。1944年5月7日急逝。日本山岳会は副会長の槇有恒が会長を代行した。 金峰山西側山麓の金山平(かなやまだいら)に、田部重治、木暮理太郎のレリーフがある。 影響力木暮の文章が日本の登山界に与えた影響は大きく、登山愛好者の裾野を大きく広げることに貢献した一方、一部には草創期ゆえの混乱ももたらした[1]。1915年に田部重治と剱岳に登山した際には、途中の小黒部鉱山の事務所(剣岳の東北方向、現在の池の平小屋付近)に宿泊の便宜を図ってもらうとともに無償で食料を調達して登山を行った[1]。下山後、この山行を山岳会誌「山岳」にて触れたところ、次年度より次々と一般の登山者が鉱山事務所を訪れ、宿泊と食料を要求するようになったという[1]。鉱山側は、あまりの多さに業務に支障を来し、1918年の「山岳」(第十二年一月号)にて食糧は持参するように訴えるに及んでいる[1]。 著書
脚注関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia