有馬丸有馬丸(ありままる)は日本郵船の貨物船[1]。A型船と呼ばれる5隻の貨物船のうちの一隻[2]。 三菱重工業長崎造船所で建造[3]。船番628[4]。1936年3月18日起工[4]。9月16日進水[4]。11月30日竣工[4]。 A形船はリバプール線用に建造されたが同線では使われなかった[5]。「有馬丸」は北欧線に投入され、1937年7月にはA型船5隻で東航世界一周線が開設された[6]。 1941年4月7日、銅鉱石積取りのため臨時船として横浜より出港[7]。銅コンセントレート2200トン、アンチモン鉱617トンなど、計4797トンを積んで5月24日にチリのトコピアを出港しペルーのモエンドへ向かった「有馬丸」は、5月25日にモエンド南方4浬の地点で座礁した[8]。米英系のサルベージ会社へ救助依頼は当時の国際情勢から拒否されたため、まず日本郵船の「高岡丸」が現地に派遣され船固め作業に当たった[9]。しかし、6月6日に作業に従事していた伝馬船が転覆して2名が死亡する事故が発生し、「高岡丸」は作業を中止して去った[10]。「有馬丸」の曳き降ろしは日本サルベージに依頼され、同社社員を乗せた日本郵船の「崎戸丸」が8月15日に現場に到着[10]。9月15日に「有馬丸」の浮揚に成功した[11]。「有馬丸」は「崎戸丸」によってカイヤオへ曳航され、そこで応急修理を受けた後、10月9日に「崎戸丸」に曳航されて日本へ向けて出発[12]。11月20日に横浜に到着した[11]。その後、横浜三菱造船所で修理が行われ、1942年7月に船舶運営会に配属された[13]。 「有馬丸」船長の田口英重は、高速無煙の「有馬丸」にとっては護衛は邪魔だとして船団には加わらなかった[14]。「有馬丸」は1942年12月29日に海軍に徴用され、応急油槽船に改造されて特設運送船となった[14]。「有馬丸」に乗り込んだ海軍の小沢覚輔大佐も田口の考えに賛同し、以後も「有馬丸」は単独で航海した[14]。 1943年3月3日、呉を出港[15]。3月11日にシンガポールに着き、ディーゼル油7880トンと砲艇3隻を積んで3月25日に出港した[15]。途中で敵潜水艦の雷撃を受けたが回避し、3月28日にバリクパパンに到着[15]。3月30日にトラックへ向け出港した[15]。「有馬丸」はそれまでは単独で航海していたが、4月2日に駆逐艦「夕月」の護衛を受けるよう命じられた[15]。しかし「夕月」との合流には手間取り、4月3日[16]11時ごろにようやく合流できた[15]。それから2時間後の13時5分、右舷側に雷跡が発見された[15]。一本は回避に成功するも、2本が命中[15]。火災が発生して「有馬丸」は炎に包まれ、総員退去が命じられた[15]。「有馬丸」は4日11時5分に沈没した[17]。11名が戦死した[18]。「有馬丸」を攻撃したのはアメリカ潜水艦「ハダック」であった[19]。 「有馬丸」と「夕月」との合流の際に連絡のため電波が何度も発せられており、田口はそのことで敵に探知されたのではないかとしている[20]。
脚注
参考文献
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