有働 克也
2017年11月23日 横浜スタジアムにて |
基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
兵庫県神戸市長田区 |
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生年月日 |
(1969-09-24) 1969年9月24日(55歳) |
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身長 体重 |
182 cm 90 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1991年 ドラフト3位 |
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初出場 |
NPB/1992年4月23日 CPBL/2000年3月11日 |
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最終出場 |
NPB/1997年10月2日 CPBL/2000年7月15日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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コーチ歴 |
- 横浜DeNAベイスターズ (2015 - 2016)
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有働 克也(うどう かつや、1969年9月24日 - )は、兵庫県神戸市長田区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。1996年の一時の登録名は有働 勝次(うどう かつじ)。
経歴
プロ入り前
小学3年で野球を始める[1]。神港学園時代は控え投手であり目立たなかったが、大阪経済大学へ進むと素質が開花[1]した。1年生春に6勝無敗で最優秀投手を獲得するなどエースとして活躍した[1]。関西六大学リーグ通算67試合に登板して26勝22敗、防御率1.62[1]の成績で、最優秀選手に1度、最優秀投手に2度、ベストナインに3度選出された[1]。4年秋にはリーグ優勝を経て明治神宮大会に出場。
大洋・横浜時代
1991年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団[1]し、1年目から先発ローテーション投手として活躍した。
ストレートは130キロ台半ばで、カーブやスライダー、シュートなどで打たせて取る投球が持ち味だった。投球フォームはオーバースローだが、1試合のうちで何球かをサイドスローで投げてバッターのタイミングを外し、ボールカウントを整えた。有働自身はこのサイドスローを「おちょくり投法」と呼んだ。
1993年に球団名が横浜へ変更されて以後最初の開幕投手を務め、オールスターゲームにも出場[1]した。1994年も開幕投手を務めて勝利投手になり[1]、規定投球回数も満たしてしチーム二位の8勝を挙げた。
酒好きで知られ、同じく酒豪だった同僚の盛田幸妃と仲が良く、キャンプで盛田とともに部屋をスナック化し、コーチの部屋へいたずら電話をしたり、早朝の4時に後輩を呼びつけて酒を飲ませるなどしながら、1か月間不眠で酒をあおっていたという[2]。
以降は体重増などから恒常的に精彩を欠き、成績は年々下降。1996年は防御率8点台とふるわず、球団から戦力外通告されると、兄貴分の佐々木主浩が球団に猛抗議。佐々木はメジャーリーグへの挑戦もほのめかした。
中日時代
1997年に中日ドラゴンズへテスト入団し、開幕5戦目に先発投手で登板するなどローテーションの谷間を埋める戦力として期待された。8月17日の対ヤクルト21回戦で、延長10回を1失点(9安打1四死球)に抑える好投を見せたが白星はつかず、移籍1年目は閉幕直前の10月に中継ぎで横浜から1勝をあげるにとどまった[1]。
1998年はウエスタン・リーグ最多勝投手となるが、投手陣の層が厚くなり一軍登板はなかった[1]。1999年もチームはリーグ制覇をしたが一軍で登板できず、オフに戦力外通告されてオリックス・ブルーウェーブの入団テストを受けるも不合格となる。
台湾時代
2000年は台湾の和信ホエールズ[1][3]で活躍した。球速はないものの精緻なコントロールで5勝7敗・防御率2.26の記録を残したが、和信フロントは先発投手としてスタミナ不足であることを懸念し、他の選手と契約するためにシーズン中に戦力外を通告[3]した。
引退後
退団後はヤクルトスワローズの打撃投手を経て、2003年からは古巣横浜に戻って打撃投手を務めた。2009年からはスコアラーやチームサポーターも兼務。2015年、2016年にはDeNAの二軍投手兼育成担当コーチを務め、再度スコアラーとなった。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1992
|
大洋 横浜
|
19 |
9 |
1 |
0 |
0 |
3 |
6 |
0 |
-- |
.333 |
275 |
61.1 |
62 |
7 |
35 |
1 |
4 |
38 |
2 |
0 |
36 |
34 |
4.99 |
1.58
|
1993
|
25 |
20 |
1 |
0 |
0 |
6 |
6 |
0 |
-- |
.500 |
487 |
122.2 |
98 |
13 |
36 |
0 |
5 |
69 |
1 |
0 |
48 |
45 |
3.30 |
1.09
|
1994
|
28 |
22 |
2 |
0 |
1 |
8 |
7 |
0 |
-- |
.533 |
556 |
130.0 |
150 |
14 |
40 |
2 |
3 |
57 |
2 |
0 |
49 |
49 |
3.39 |
1.46
|
1995
|
22 |
15 |
0 |
0 |
0 |
4 |
7 |
0 |
-- |
.364 |
348 |
78.2 |
94 |
7 |
34 |
2 |
0 |
35 |
1 |
0 |
47 |
47 |
5.38 |
1.63
|
1996
|
14 |
10 |
1 |
0 |
0 |
1 |
3 |
0 |
-- |
.250 |
200 |
40.0 |
71 |
4 |
18 |
0 |
3 |
12 |
3 |
0 |
39 |
37 |
8.33 |
2.23
|
1997
|
中日
|
19 |
3 |
0 |
0 |
0 |
1 |
4 |
0 |
-- |
.200 |
153 |
37.1 |
39 |
2 |
11 |
1 |
2 |
20 |
1 |
1 |
17 |
17 |
4.10 |
1.34
|
2000
|
和信
|
18 |
14 |
0 |
0 |
0 |
5 |
7 |
1 |
0 |
.417 |
359 |
83.2 |
92 |
4 |
17 |
1 |
4 |
27 |
1 |
1 |
36 |
21 |
2.26 |
1.31
|
NPB:6年
|
127 |
79 |
5 |
0 |
1 |
23 |
33 |
0 |
-- |
.411 |
2019 |
470.0 |
514 |
47 |
174 |
6 |
17 |
231 |
10 |
1 |
236 |
229 |
4.39 |
1.46
|
CPBL:1年
|
18 |
14 |
0 |
0 |
0 |
5 |
7 |
1 |
0 |
.417 |
359 |
83.2 |
92 |
4 |
17 |
1 |
4 |
27 |
1 |
1 |
36 |
21 |
2.26 |
1.31
|
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
記録
- NPB投手記録[4]
- 初登板:1992年4月23日、対阪神タイガース5回戦(横浜スタジアム)、8回表に4番手として救援登板、1回無失点
- 初先発登板・初完投・初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1992年5月3日、対中日ドラゴンズ5回戦(横浜スタジアム)、9回1失点7被安打7奪三振2与四死球
- 初奪三振:同上
- NPB打撃記録[5]
- 初打席:1992年5月3日、対中日ドラゴンズ5回戦(横浜スタジアム)、上原晃と対戦
- 初安打:同上、単打[注 1]
- 初打点:同上、上原晃から1打点
- NPBその他の記録
背番号
- 10 (1992年 - 1993年)
- 14 (1994年 - 1996年)
- 42 (1997年 - 1999年)
- 21 (2000年)
- 91 (2001年 - 2002年)
- 99 (2003年)
- 103 (2004年 - 2008年、2010年 - 2014年)
- 86 (2015年 - 2016年)
登録名
- 有働 克也 (うどう かつや、1992年 - 1996年8月12日、1997年 - 1999年)
- 有働 勝次 (うどう かつじ、1996年8月13日 - 同年終了)
脚注
注釈
- ^ 出典の情報だけでは、救援投手から記録した可能性もあるため、先発投手の上原晃から記録したとは限らない。[5]
出典
関連項目
外部リンク
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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