普門寺 (藤沢市)
普門寺(ふもんじ)は神奈川県藤沢市本鵠沼にある高野山真言宗の寺。相模国準四国八十八箇所のうち第四十七番札所と第八十八番結願の札所がある。1872年(明治5年)から1913年(大正2年)まで、藤沢市立鵠沼小学校の前身である鵠沼学舎、尋常高等鵠沼小学校が置かれていた[2]。 歴史密巌山遍照院普門寺と号し、高野山真言宗(古義真言宗)に属しているが、もと藤沢・大鋸の感應院三十二か寺の一つであった。過去帳によると、享禄元年(1528年)5月、感應院三五代権大僧都良元(良元僧都)が、唐土ヶ原(平塚市)に一寺を創建、十一面観音像を本尊としたという。その後、元和3年(1617年)3月、元朝阿遮梨が、砥上ヶ原の現地に再興開基し、本尊を不動明王像とした。元本尊の十一面観音像は、寺の東方に離れて観音堂を建立して安置した。 伽藍
境外施設歴代住持墓所山門を出て藤沢市立鵠沼小学校正門前の道路を行った左側台上(本鵠沼5-2)にある。
大東観音堂鵠沼小学校前交差点を東に入った藤沢市本鵠沼2-4-36にあった。現在は大東町内会館が建ち、その一室にかつての普門寺本尊だった十一面観音像が祀られている。
相模国準四国八十八箇所浅場太郎右衛門(鵠沼村最南部の堀川在住)は下総国利根川下流部に四国八十八箇所札所の砂を埋めた新四国八十八箇所相馬霊場があるのを知り、相模にも同趣旨の巡礼場を開設しようと普門寺の僧善応密師に相談、その候補地の選定と交渉を行った。文化14年(1817年)、善応の弟子で、当時大東の観音堂の庵主をしていた浄心に依頼して、四国八十八箇所の霊場の砂と宝印を集めさせた。それを現在の鎌倉市、横浜市泉区、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町にまたがる設定の場所に埋め、標示石を立てるとともに、大師像と御堂を建てた。しかし、太郎右衛門は霊場造営中途の文政10年(1827年)8月30日に没し、その遺業は、同名を襲名した子(弘化4年(1847年)9月12日没)に引き継がれた。太郎右衛門親子二代の墓石の側面には、父の方に「願主の墓」、子の方に「土砂加持起願之墓」と刻してある。普門寺には四十七番札所と結願の八十八番札所がある。 壇信徒の高野山参拝相模国と縁の深い高野山の塔頭、高室院の文書(寒川総合図書館・寒川文書館蔵)によると、正徳元年(1711年)6月21日から慶応3年(1867年)8月13日までの間に鵠沼村の村人延べ337人が63回にわたって高野山金剛峯寺に参拝している。うち普門寺僧と判明するのは8名である。この文書で注目すべきは、ほとんどの参拝者が姓を名乗っていることである[誰?]。鵠沼村の村人は大多数が農家であった。[3] 脚注出典 参考文献
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