日本サルヴェージ株式会社[注 1](にっぽんサルベージ、英: The Nippon Salvage Co., Ltd.)は、東京都大田区に本拠を置く日本のサルベージ会社の一つ。日本サルベージ協会加盟。日本のサルベージ会社では唯一国際救助者連盟へ理事を送り出している。クレーン会社の日本サルベージサービスとは関係ない。
概要
1934年(昭和9年)9月21日、日本の損害保険会社主導の下、当時のサルベージ業界の二強であった「帝国サルヴェージ株式会社」と「東京サルヴェージ株式会社」が統合し、日本サルヴェージ株式会社が設立された。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、国策として業界を1社に集約した「日本海難救助株式会社」へ統合され、社員・船舶は海軍へ応召、各艦隊へ組み込まれたりしたが、敗戦後は国策会社は廃止され、当初の社名へ変更した。
今日では、シンガポール以東、西太平洋地域では最大のサルベージ会社。国内での同業他社は、深田サルベージ建設等数社存在するが、同社の社名も見てもわかるとおり、そのほとんどは海洋工事などへ業種をシフトしている。日本サルヴェージも海底ケーブルを敷設する工事部門を持っているが、売り上げの大半は海難救助に依存している。このため、現在では日本サルヴェージは自他共に認めるサルベージ業界のリーディングカンパニーといえる。
主要船舶
- 海難救助船(サルベージ船)「航洋丸」(2,474総トン、10,000馬力)東京都の尖閣諸島調査団の母船として使用
- 海難救助船(サルベージ船)「早潮丸」(497総トン、4,000馬力)[2]
- 作業台船「開洋」
- 作業台船「海進」[3]
- 作業台船「正国」[4]
- 作業台船「海島」[5]
沿革
- 1893年(明治26年)12月、三菱長崎造船所が海難救助事業を開始。
- 1917年(大正6年)、東京サルヴェージ株式会社設立。同年、三菱長崎造船所の海難救助部門・山科海事工業所・松田海事工業所を併合し、日本海事工業株式会社設立。
- 1918年(大正7年)、帝国海事工業株式会社設立。
- 1924年(大正13年)、日本海事工業株式会社と帝国海事工業株式会社が統合し、帝国サルヴェージ株式会社設立。
- 1934年(昭和9年)9月21日、帝国サルヴェージ株式会社と東京サルヴェージ株式会社が統合し、日本サルヴェージ株式会社設立。
- 1937年(昭和12年)、香港港外に坐礁した、浅間丸の救助作業に着手(1938年(昭和13年)救助成功)。この顛末については内藤初穂著「太平洋の女王 浅間丸」に詳述されている。
- 1939年(昭和14年)、上海に事務所を開設。
- 1940年(昭和15年)、東京月島に技術研究所兼潜水技術員養成所を新設。
- 1949年(昭和24年)、水中電気切断の実用化。
- 1965年(昭和40年)、水中電気溶接の実用化。
- 1979年(昭和54年)、海洋事業部を設置。
支店
- 門司支店(北九州市門司区田野浦海岸15-73)
- 唯一の支店であり、救助船および救助チームの基地。過去には、大阪、函館、高松、小樽、上海等に支店を置いていた。
フィクションへの登場
- 漫画「我が名は海師」は日本サルヴェージがモデルとなっている。この漫画に出てくる「スマット」は、オランダの大手サルベージ会社「スミット(SMIT)」のことと思われる。
脚注
注釈
- ^ 公式サイト上などでの表記。登記社名は「日本サルヴヱージ株式会社」で、「ヱ」は大書きとなる。また、決算公告では「日本サルヴヱージ株式会社」と、「ヱ」を小書きにした表記を用いている。
出典
外部リンク