民間では1866年に来日したデンマーク人商人フレデリック・クレブス(Otto Frederick Krebs, 1838-1913)が、1874年に炭鉱採掘技師として三菱に入社し、のちに幹部にまで出世した[9][10][11]。1892年から森鷗外がアンデルセンの『即興詩人』の邦訳を断続的に発表し、1902年に単行本として刊行、典雅な美文でロングセラーとなった。1900年にはヴァルデマー王子が来日。デンマークの農事改良についてはたびたび紹介されて定評があり、 1908年には、衰退した養鶏業を共同経営で復興させた広島県のある村が「小丁抹(小デンマーク。丁抹はデンマークの漢字表記)」と呼ばれて称賛された[12]。
1911年(明治44年)に内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演し、エンリコ・ダルガスの植林事業を優れた施策として紹介[13]。1912年には、植民地統治にあたっていた台湾総督府技師の東郷実がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著し[14]、翌1913年には、デンマークのニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィの教育事業に触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)による『国民高等学校と農民文明』(那須皓訳)が刊行されるなど、プロシアとの戦争に敗れて疲弊した国を農業改革や教育で再興させたデンマークの試みは日本の農本思想家たちの共感を呼んだ。