賀陽 治憲(かや はるのり、1926年〈大正15年〉7月3日 - 2011年〈平成23年〉6月5日[1])は、日本の外交官。旧皇族、賀陽宮恒憲王の第2王子。海軍兵学校75期。1947年10月14日の皇籍離脱までは、治憲王(はるのりおう)。
略歴
皇族時代
1926年〈大正15年〉7月3日午前8時50分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第2男子として誕生[2]。御七夜の7月9日に「治憲」と命名された[3]。
学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年(昭和18年)12月1日、江田島海軍兵学校(75期)に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。
治憲王が入校した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。分校においては柔道を選択、練成した。最高裁判所長官・三好達、高瀬国雄、海上幕僚長・吉田學らは75期の同期生である。敗戦後の1945年(昭和20年)10月1日、海軍兵学校を卒業。このため最終階級は少尉候補生ということになる。
1946年(昭和21年)7月3日に成年に達したため、貴族院皇族議員に就任する[4]が、3か月後の10月8日に辞任した[5]。兄の邦寿王ら、多くの皇族が5月23日付で辞職しており、最後の貴族院皇族議員であった。
また、本来なら皇族身位令に基づき、20歳の成年を迎えた同年7月3日以降に勲一等旭日桐花大綬章を受章すべき身位にあったが、同年5月の閣議決定で生存者叙勲が停止されため、受けることはなかった(生存者叙勲は1963年の閣議決定で再開)。
戦後、外務官僚として
1947年(昭和22年)10月14日、他の皇族と共に臣籍降下(皇籍離脱)し[6]、以降は賀陽 治憲(かや はるのり)となる。
その後、1950年(昭和25年)に東京大学法学部を卒業して外務省に入省する。米国フレッチャー法律外交大学院留学[7]、国際連合日本政府代表部一等書記官、在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、欧亜局英連邦課長、1969年(昭和44年)日本政府沖縄事務所次長[8]、ジュネーブ国際機関日本政府代表部公使、外務省経済局次長、領事移住部長を経て、1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)まで国連局長。同年在イスラエル特命全権大使、1983年(昭和58年)在デンマーク特命全権大使、1987年(昭和62年)外務省研修所長、1989年(平成元年)ブラジル特命全権大使。財団法人交流協会顧問と要職を歴任した。
1970年代後半から1980年初めにかけてには国会の政府委員(外務省国際連合局長)として、複数回政府委員として答弁を行った。この中には奴隷制度廃止補足条約など国際連合の人権条約の批准について消極的な答弁をしたものが含まれる[注釈 1]。
侍従長入江相政は、1983年(昭和58年)11月15日付の日記で治憲王に言及し、「皇族、舊(旧)皇族のうちのまさにピカ一。こんな方がもう少しゐて下されば。」と書いている。
1996年(平成8年)からは憩の園在日協力会会長を務め、学習院の同窓会桜友会の会長(第5代)も務めた。
2011年(平成23年)6月5日、老衰のため東京都稲城市の病院で逝去。叙・従三位。
発言
1947年10月14日付の『時事新報』にて「太宰治の『斜陽』はちょっと身につまされておもしろいですね」と発言している。
栄典
血縁
系譜
脚注
注釈
- ^ 「奴隷条約につきましては、強制労働の概念が不明確でございますとか、わが国の現状において特に奴隷問題を把握しなければならない緊要性がないというような点、そういった点から必ずしも必然性を感じておりません」などの答弁がある(1979年5月28日参議院外交委員会会議録)。
- ^ 木下俊愿の三女。
出典
関連項目
|
---|
総領事兼国際会議事務局次長 | |
---|
総領事 | |
---|
出張駐在官事務所長 |
- 菅沼健一2010-2012
- 岡田隆2012-2014
- 領事事務所に改称2014
|
---|
領事事務所長 | |
---|
|
---|
弁理公使/全権公使(ペトロポリス駐在) |
- 珍田捨巳弁理公使1897-1899
- 大越成徳弁理公使→全権公使1899-1903
- 堀口九萬一臨時代理公使1903-1904
- 杉村濬全権公使1904-1906
- 内田定槌全権公使1906-1911
- 藤田敏郎臨時代理公使1911-1913
- 畑良太郎全権公使1913-1918
- 公使館移転
|
---|
全権公使(リオデジャネイロ駐在) | |
---|
全権大使(リオデジャネイロ駐在) | |
---|
全権大使(東京駐在) |
- 石射猪太郎1942-1944(実質的には待命大使)
|
---|
全権大使(リオデジャネイロ駐在) | |
---|
全権大使(ブラジリア駐在) | |
---|
カテゴリ |
外務省研修所所長 (1987年 - 1989年) |
---|
- 門脇季光:1955(昭和30)年-1955(昭和30)年
- 日高信六郎:1955(昭和30)年-1959(昭和34)年
- 渋沢信一:1959(昭和34)年-1961(昭和36)年
- 与謝野秀:1961(昭和36)年-1964(昭和39)年
- 徳永太郎:1964(昭和39)年-1965(昭和40)年
- 三宅喜二郎:1965(昭和40)年-1968(昭和43)年
- 高橋通敏:1968(昭和43)年-1970(昭和50)年
- 小島太作:1970(昭和45)年-1972(昭和47)年
- 小川平四郎:1972(昭和47)年-1973(昭和48)年
- 原栄吉:1973(昭和48)年-1975(昭和50)年
- 岡田晃:1975(昭和50)年-1978(昭和53)年
- 吉岡一郎:1978(昭和53)年-1979(昭和54)年
- 御巫清尚:1979(昭和54)年-1981(昭和56)年
- 穂崎巧:1981(昭和56)年-1983(昭和59)年
- 野田英二郎:1983(昭和58)年-1987(昭和62)年
- 賀陽治憲:1987(昭和62)年-1988(昭和63)年
- 堤攻一:1988(昭和63)年-1991(平成3)年
- 木幡昭七:1991(平成3)年-1992(平成4)年
- 山下新太郎:1992(平成4)年-1994(平成6)年
- 湯下博之:1994(平成6)年-1996(平成8)年
- 法眼健作:1996(平成8)年-1998(平成10)年
- 高野紀元:1998(平成10)年-1999(平成11)年
- 時野谷敦:1999(平成11)年-2001(平成13)年
- 阿部知之:2001(平成13)年-2003(平成15)年
- 上田秀明:2003(平成15)年-2004(平成16)年
- 関興一郎(事務代理):2004(平成16)年-2005(平成17)年
- 高橋恒一:2005(平成17)年-2007(平成19)年
- 西田芳弘:2007(平成19)年-2010(平成22)年
- 鹿取克章:2010(平成22)年-2011(平成23)年
- 野川保晶:2011(平成23)年-2012(平成24)年
- 鈴木敏郎:2012(平成24)年-2013(平成25)年
- 越川和彦(事務代理):2013(平成25)年
- 兒玉和夫:2013(平成25)年
- 谷崎泰明:2013(平成25)年-2014(平成26)年
- 上月豊久(事務代理):2014(平成26)年
- 佐藤悟:2014(平成26)年-2016(平成28)年
- 泉裕泰:2016(平成28)年-2017(平成29)年
- 斎木尚子:2017(平成29)年-2019(平成31)年
- 片山和之:2019(平成31)年-2020(令和2)年
- 小泉勉:2020(令和2)年-2022(令和4)年
- 武藤顕:2022(令和4)年-2023(令和5)年
- 田村政美:2023(令和5)年-
|
|
---|
全権公使(アンカラ駐在) |
- 在トルコ大使が兼轄
- 上村伸一1954-1955(在トルコ大使としては引き続き1957年まで駐箚)
|
---|
全権公使(テルアビブ駐在) | |
---|
全権大使(テルアビブ駐在) | |
---|
カテゴリ |
外務省領事移住部長 (1977年 - 1979年) |
---|
移住局長 | |
---|
中南米・移住局長 | |
---|
領事移住部長 | |
---|
領事局長 | |
---|