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大分県津久見市にある「日代駅」あるいは大分県北海部郡にあった「日代村」とは異なります。 |
日代(にちだい、永仁2年(1294年)[注釈 1] - 応永元年4月18日(1394年5月18日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての日興門流の僧。駿河国河合の出身。伊予公・伊予房・伊予阿闍梨・蔵人阿闍梨と称する。日興の弟子「新六人」の筆頭。駿河国西山本門寺の開山。
日興の外甥にあたり、弟に日善[注釈 2]、甥に日助がいる。日興示寂後、重須談所(北山本門寺)の第2世となるも退出し、大石寺藤木坊に仮寓する。後に西山に移り法華堂(西山本門寺)を建立した。
略歴
- 永仁2年(1294年)、生まれる[注釈 1]。
- 元弘2年/正慶元年(1332年)、日興新六人を定む。筆頭に列せられる。
- 元弘3年/正慶2年(1333年)2月7日、日興、重須にて示寂(88歳)。重須に石経を埋む(『日満記』)。
- 元弘4年/正慶3年(1334年)1月7日、日仙と上蓮坊において問答す(仙代問答)。
- 興国元年(1340年)8月、大輔阿闍梨日善・大進阿闍梨日助等と奏聞。
- 興国4年(1343年)、西山に法華堂(後の西山本門寺)を創す。
- 興国5年(1344年)7月17日、太夫阿闍梨日尊の造佛につき三浦阿闍梨日印より問われる。8月13日、三浦阿闍梨日印に答う。
- 正平11年(1356年)5月7日、由比初犬麿「日任」を付弟と定む。
- 正平15年(1360年)6月30日、法華宗要集『法華本門宗要抄』を偽書と断ず。12月13日、宗祖の真筆本尊を由比阿闍梨日任に相伝す。
- 正平21年(1366年)4月、佐渡国小関法華縁起を記す。
- 応永元年(1394年)4月18日、示寂(101歳(もしくは98歳))。
仙代問答
仙代問答(せんだいもんどう)とは、元弘4年/正慶3年(1334年)正月7日、上条大石寺上蓮坊にて、法華経の方便品を読むか読まないかについて応酬された、日代(読む)と本六・上蓮房日仙(読まない)の問答。重須の地頭石川実忠の提案により、大石寺第4世日道が裁定し収拾された(『大石記』)。その勝敗については、次節以降のとおり、複数説がある。
日代勝利説
先ず日仙が、迹門である方便品を読むということは本迹勝劣義[注釈 3]に反するから、読んではいけない、と言う。
それに対し日代は、宗祖日蓮の遺文を引用し、先師[注釈 4]の「方便品を読むべし」の教えに反しているのに、読まないとなぜ言うのだ、と反駁する。
これを聞き日仙は、それでは方便品に成仏の道が示されているのか、と返す[注釈 5]。
日代は、与・奪・破の三義に分け、浅い「与」では利益を得られるが、より深い「奪」・「破」では利益は得られない[注釈 6]、と答える。
この答えに対し日仙は、利益が得られないのならば読んでも意味がない、と問う。
その時日代は、意味がないということは、日蓮や日興が我々に読ませて下さったのは誤りか・『大覚抄』にあるお言葉は誤りか、と責める。
これに日仙閉口した。
(日満記『方便品読不之問答記録』)
日仙勝利説
日仙は、方便品は迹門であるから読まない、とする。
日代は、日興以外の六老僧の主張と同じく[注釈 7]、本門と迹門に差異はないから迹門で利益が得られるから読むべき、とした。
これに対して日仙は、迹門・方便品は一切読まないという考え方は、門流から離反した人[注釈 8]の考え方と同じであると断じたが、当日の問答は日仙が勝った〔ママ〕。
(日叡記『日仙日代問答記録』)
両記録への指摘
『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』への指摘は次のとおり。
- 建武の改元は、元弘4年/正慶3年の正月29日に行われており、建武元年正月7日は存在しない日付である。即ち、「元弘4年(正慶3年)正月7日」とすべきところを、『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』ともに、「建武元年正月7日」としている[注釈 9]。
- 日仙が「日興示寂以後、代々の申し状に『方便品が迹門である間は読むべからず』と書かれている」と主張した、と『日仙日代問答記録』にあるが、この仙代問答は日興示寂の翌年にあった出来事である。
- 『日仙日代問答記録』に日代が重須を追放されたことが書かれていることから、本記録は重須離山後の執筆である。
後世の評価
後世の評価は、次のとおり。
- 日代は、与・奪の二釈を破釈する立場を新たに強調した。このことが、以後の富士門流教学の骨旨となるきっかけを作ったといえる。
- この問答を契機として、約教本迹論[注釈 10]が約宗本迹論[注釈 11]へと移行していったと推定される。このため、日代の思想は、画期的であると言える。
- 『方便品読不之問答記録』『日仙日代問答記録』の相違は甚だしく、何れにも決しがたいが、当時の富士門流教学の大綱から外れるところはない。
重須退出の理由
仙代問答の後、日代は重須を去ることとなるが、その理由は、以下のように諸説ある。
- 重須本門寺が火災で失われ、その責任を問われた(『大石記』)。
- 日代は日頃から「五十六品」という教えを主張していたが、これは日興・日目の本意に背くものであり、仙代問答に負け、本迹迷乱の廉(かど)で追放された(『日仙日代問答記録』)。
- 重須の地頭石川実忠が同族出身の日妙に住職を任せたいと思った。
- 重須の地頭石川実忠が日代・日妙のうち日妙に帰依し、重須を日妙に譲ろうと考えた。
- かねてより重須の地頭石川実忠の間に不和を生じており、仙代問答が契機となった 。
- かねてより日妙との間に不和を生じており、仙代問答が契機となった 。
新六人
脚注
注釈
- ^ a b (日蓮正宗宗務院 1999, p. 271)には、永仁5年誕生、とある。
- ^ (日蓮正宗宗務院 1999, p. 271)・(榎木境道 2007, p. 59,62)には、日善は日代の兄、とある。
- ^ 法華経の本門と迹門では、本門に重きを置く、という考え方
- ^ 前の時代の同門僧侶
- ^ 日仙も日代も、法華経本門・迹門では本門に重きを置く、としている。そのため、これは、迹門に含まれる方便品には成仏の道は示されていない、という意味になる。
- ^ (宮崎英修 1995, p. 38)では、「与」の浅い教えでは利益を得られるが、「与」のより深い教えや「奪」・「破」では利益は得られない(要旨)、とある
- ^ 日興門流の主流に反することを意味する
- ^ 天目・日弁
- ^ (宮崎英修 1995, p. 39)は、これを根拠に、後日書かれたものと推測している。
- ^ 八教に基づいて論じられる本迹論(法華経の本門・迹門に関する議論)
- ^ 宗旨に基づいて論じられる本迹論
出典
参考文献
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(師匠:日興) |
- 日代(1294年 - 1394年)
- 日澄(1261年 - 1310年)
- 日道(1283年 - 1341年)
- 日妙
- 日毫(1293年 - 1353年)
- 日助
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