方違神社
方違神社(ほうちがいじんじゃ)は、大阪府堺市堺区にある神社。地元では「ほうちがいさん」と称されている。旧社格は郷社。祭神は方違幸大神(かたたがえさちおおかみ)。古くから方違え、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めている。 歴史社伝では、崇神天皇8年12月29日(紀元前90年)に、勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原に遣わせて須佐之男神を祀らせたとする。これが当社創建の起源という。 その後、神功皇后が三韓征伐終了後に忍熊王の叛乱に遭った際、当地に天神地祇を祀って方災除けを祈願し、合戦に勝利している。更に応神天皇が須佐之男神と天神地祇の他に三筒男神(住吉大神)と神功皇后を祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と号し、この社を方違宮と称したとされる。 社地は摂津国、河内国、和泉国の境の三国山(現・三国ヶ丘)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として有名であった。 奈良時代には行基が伏屋や井戸を設けて人馬往来の要衝として栄えた。天平15年(743年)には後に神宮寺となる向泉寺(現・三国丘高校の地)が建立されている。 平安時代には熊野街道にあったため熊野詣の人々が参詣して旅の安全を祈願した。 永正年間(1504年 - 1521年)に向泉寺が兵火で焼失し、後に現・堺区市之町東に再建された。 1868年(明治元年)には東京奠都の折に17日間の祈祷の命を蒙った。また、神仏分離によって神宮寺の向泉寺は廃寺とされた。 1873年(明治6年)3月、郷社に列している。1907年(明治40年)2月に水天宮社を合祀し、同年10月には当社の南東にあり泉北郡向井村の氏神社である向井神社(牛頭天王社)とその境内社(愛宕神社、神明社、小祠四社)を合祀して方違天王神社と改称するが、翌11月に方違神社に復号した。1908年(明治41年)12月、八幡社と武内社を合祀する。 1945年(昭和20年)7月10日の堺大空襲(第6回大阪大空襲)で社殿が焼失するが、1948年(昭和23年)に再建した。2017年(平成29年)12月に社殿が建て替えられた[1]。 現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所から出かけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。 古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほか御砂、ちまきがある。 境内には三国丘碑、養蚕興業碑などがある。当社は反正天皇陵の北東部に接している。 祭神
境内
文化財大阪府指定天然記念物
堺市指定保存樹木
祭事・行事以下の祭事・行事がある。
故事神武天皇の東征時、その兄が反旗を翻した。神武天皇の夢まくらに老人が立ち、瓦を作り、飴を作って神前に備えるとどんな逆賊も平定できるとのお告げを得て、兄の一族を降参させた。その後、神后皇后が堺の浦に上陸し、三国丘に上陸した際、葦の葉に当地の埴土を包んで方災の祓をし、埴土で飴を作って神前に備え、治国平天下を祈願した。 二月の節分に飴を売る店が出て、一家が祝って食べる習慣が残る。また、方違神社の紋がちまきであるのは、葦の葉に埴土を包んで方災よけをされた神后皇后の故事により、5月31日の例祭にはちまきを供える[8]。 交通機関出典参考文献
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