新高堂書店新高堂書店(にいたかどうしょてん)[1]または新高堂は[2]、日本の老舗書店[1][3]。1898年(明治31年)日本統治時代の台湾で創業。戦後引き揚げて東京の中目黒駅前に移転。2023年(令和5年)に閉業した[1][3][4][5]。 戦前台湾の新高堂1898年、初代店主村崎長昶(むらさき ながあき、経歴後述)が台北で創業した[1]。店名は新高山にちなむ[1][6]。 当初は小さな文具店だったが、業務拡大し、内地から仕入れた書籍や雑誌、現地用の日本語教科書の販売で発展した[1]。さらにスポーツ用品・楽器・宝くじの販売や[5][6][7]、伊能嘉矩の台湾研究書、台湾の公務員試験参考書、『台北写真帖』『南邦経済』などの自社出版も扱った[5]。従業員は日本人だけでなく台湾人もいた[8]。当時台湾には複数の日本書店があったが、最大の書店は新高堂だった[2]。 1915年、店舗が台湾総督府そばの栄町の一等地(現在の重慶南路と衡陽路の交差点)に移転[1][5]。総督府から支援も受け[2][9]、3階建て赤レンガのビルとなった(設計者は森山松之助)[2]。 「プレイステーションの生みの親」久夛良木健は、祖父が村崎長昶の親族であり、新高堂の支配人を務めた人物だった[1][6]。前半生を台湾で過ごした西川満は、晩年の随筆で新高堂の思い出を述べている[5]。 創業者・村崎長昶村崎長昶(1870年 ‐ 1950年)は、熊本県不知火村生まれ[10]。中学済々黌出身[10]。1891年沖縄に渡り『琉球踊狂言』『琉球風俗記』を著述[10]。1895年台湾割譲の年、初代総督の樺山資紀と同じ船で妻子と渡台[5][6]。陸軍省職員を務めた後[2]、1898年新高堂を創業。現地の伝染病で我が子を失うなど苦労のなか経営を続けた[5]。1922年台湾書籍商組合の設立を牽引し、終戦まで組合長を務めた[11]。その間、台北市会議員、台湾製紙・台湾出版会の理事、関連企業の主要株主も務めた[10]。没後に回顧録が公刊されている[10]。 戦後中目黒の新高堂1946年、村崎家はわずかな財産を持って引き揚げ、大分・千葉・東京の親類の家を転々とした[6]。 1948年ごろ[1]、2代目店主(村崎長昶の養子で弟の実子[12])が、空襲の跡が残る中目黒駅前の一角を購入し再開店した[1][6]。以降「街の本屋[4]」「地域密着の本屋[3]」として地元民に親しまれた[3]。2010年、中目黒駅前の再開発に伴い「中目黒アトラスタワー」の商業施設に入った[6]。 2023年12月30日、出版不況の波に抗えず、5代目店主(村崎長昶の玄孫)の苦渋の決断のもと閉業した[1][3]。閉業予告がSNS等で広まると、日本だけでなく台湾からも、メディア取材や、閉業を惜しむ客が訪れた[3][5]。 台湾の新高堂の跡戦後、赤レンガの新高堂ビルは、外省人の国民党関係者に引き継がれ「東方出版社」が入居した[1]。東方出版社は、戦後台湾における国語児童書の大手出版社として知られる[1][2][5]。1980年、新高堂ビルは解体され、8階建てガラス張りのビル(東方大樓)となった[2]。中目黒の新高堂店主や[5]、上記の久夛良木健が東方出版社を訪問している[6]。 2016年、台湾独立書店文化協会が刊行した『台湾書店百年の物語』では、台湾書店史最初の店として新高堂が紹介されている[2]。 脚注
参考文献
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