斎藤柴香斎藤 紫香(さいとう しこう、1901年4月16日 - 1961年11月30日) は、日本の俳優である。兵庫県神戸市出身。帝国キネマ→日活→大映→東映所属の俳優だった[1]。本名は斎藤 武徳(さいとう たけのり)。 来歴・人物1901年(明治34年)神戸市夢野村36番屋敷(神戸市兵庫区夢野)に斎藤藤助の長男として生まれる。幼少期は両親の離婚の為、弟の正義とともに母方の親戚のもとで育った。1915年(大正4年)、父親死亡により家督を継ぐ。 1920年(大正9年)聖峰中学校[2]を卒業、親戚(神戸の貿易商)の伝で帝国キネマに入社。 1925年(大正14年)に無声活動大写真に初出演した後、約30本の映画に出演。戦時中は日活多摩川撮影所で戦意高揚映画にも出演。 戦後は大映に所属し、1952年(昭和27年)には美空ひばりとマーガレット・オブライエンの日米天才子役が初顔合わせした話題作『二人の瞳」』に厚生大臣役で出演。 その後東映に移籍し、テレビ番組では『七色仮面』、『ナショナルキッド』などに出演、お茶の間にも知られる脇役俳優となる。余り目立ない、科学者役など渋い脇役が多かった。1925年(大正14年)のデビューから、テレビ番組も併せ、俳優生活36年間で135本の映画作品に出演した。 大映時代に島耕二監督の作品に出ており、その関係で杉狂児・轟夕起子とは、家族ぐるみで親交があった。性格は温厚で知られた。 1961年(昭和36年)、結核を患い自宅で死去。享年60。 家族晩婚で、41歳で田口多み(当時24歳)と結婚。田口は当時東京市深川区在住の斉藤のファンだった。品川区二葉町で新居を構えたが、のちに妻と3人の息子とともに、渋谷区富ヶ谷2丁目に移った。 三男の健次はノンフィクションライターとして活躍、室戸からマグロ船に乗り南半球で漁を体験。著書「まぐろ土佐船」は「第七回小学館ノンフィクション大賞」を受賞、小学館文庫になる。千葉県船橋市で、まぐろ料理「炊屋・カシキヤ」を経営。健次によると、父・紫香の生前は映画産業が好景気で、経済的に潤っていたが、父・紫香が亡くなったあと残された家族は稼ぎ頭を失い、一転して貧乏になったという。[1] 出演映画
テレビ脚注高知新聞・勇者の黄昏・土佐マグロ戦記より 外部リンク
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