斎藤忠 (評論家)斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月29日 - 1994年(平成6年)1月12日)は日本の国際政治評論家、軍事評論家、ジャーナリスト。大日本言論報国会常務理事、『ジャパンタイムズ』論説主幹等を歴任した。尾浜惣一の筆名で翻訳も行っている。 考古学者の斎藤忠(さいとう ただし)は同姓同名の別人である。 経歴1902年(明治35年)12月29日、新潟県に生まれる[1][2]。本籍地は東京市麹町区富士見町二丁目[3](現在の千代田区九段南)。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部英文科を卒業[1]、大学院に進学し1930年(昭和5年)4月に2年の課程を修了、1933年(昭和8年)4月まで在籍[3]。大学院での研究題目は「文芸復興期以後ノ欧羅巴ニ於ケル浪漫精神ノ研究」[3]。イギリス・ドイツおよび北欧に留学[1]後、1933年、国際文化振興会英文百科辞彙編纂所長[4][5]。 1933年以後、国防・軍事・外政に関する評論活動を生業とする[6]。 1936年(昭和11年)より1940年(昭和15年)まで、東京帝国大学附属図書館前館長の姉崎正治とともに、図書館内において日本文化資料を調査する研究会を主宰する[7][2]。 1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)まで読売新聞論説客員[4]。日本評論家協会常任委員・軍事外交部会長、海軍省外交懇談会委員、内閣委員、日本放送協会対外放送委員、海洋文化協会理事などを歴任する[7][1][5][2]。1942年(昭和17年)の大日本言論報国会設立に際して理事に就任、津久井龍雄(1901-1989)の退任を受け、常務理事(総務局長)に就任[2]。このため占領中は、GHQにより公職追放となる[注釈 1]。 公職追放中、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、東郷茂徳・広田弘毅の弁護に関係した[1][4]。 1952年(昭和27年)に講話発効により追放解除し、国士舘大学教授、防衛協会常務理事に就任[4]。また調達庁英文顧問、民主政治教育連盟顧問に就任[4]した。 1957年(昭和32年)『ジャパンタイムズ』論説主幹に就任、1967年(昭和42年)より同顧問[4]。日本青年協議会の機関紙『祖国と青年』で、時事評論を1970年代から没する2年前の1992年1月号まで連載執筆した。 この他に、国民新聞社取締役会長・同最高顧問、総理府公務員制度審議会委員、文部省教科書用図書検定審議会委員、安全保障国民会議議長、日本郷友連盟顧問、英霊にこたえる会参与、日本を守る会代表委員・同東京都民会議議長、靖国国防研究会最高顧問、北方協会特別顧問、日本教師会顧問、新教育者連盟顧問、全日本教育父母会議特別顧問、アジア・アフリカ圏協会顧問、日華復交国民同盟顧問、人権擁護調査会顧問、時事通信社『パシフィック・コミュニティ』主席顧問、外交時報社顧問、自由アジア擁護連盟理事、新日本文化人会議理事、協和協会常務理事、靖国忠霊祭総代、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)副議長などを歴任した[1][4][8]。 元々社の『最新科学小説全集』の翻訳に「尾浜惣一」名義で参加しており、エル・ロン・ハバードの『宇宙航路』と、ヴアン・ヴォーグトの『新しい人類スラン』を訳している[9][2]。また、同全集でブラドベリー『火星人記録』を訳した斎藤静江は、斎藤忠の妻である[9]。 著書
翻訳
脚注注釈出典
参考文献
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