房広治
房 広治(ふさ こうじ、1959年8月10日 - )は、日本人の金融専門家・実業家・投資家・慈善家[1]。2004年から英国など海外で活動。 人物概要GVE株式会社 (GVE) の共同創業者であり、中学から大学までの先輩である日下部進 (FeliCaの開発者である元ソニーのエンジニア) を含む4名でGVEを2017年11月に創業。GVEは、現在でもメンバーが5名と少数であるが、日本で数少ないユニコーン (10億ドル以上の時価総額のある未上場会社) の一つである[2]。GVEは東京中央区に登記する会社である[3]。房は創業当時から英国に住んでいる模様。 2016年1月からオックスフォード大学の小児学部 (Department of Paediatrics) の特別戦略アドバイザー (Special Strategic Advisor)[4]。 2020年に設立されたアストン大学 (2020年のガーディアン紙のユニバーシティオブザイヤーに選ばれた) のサイバーセキュリティイノベーションセンター教授に2021年に就任[4]。 2021年には国際規格化団体のEcmaインターナショナル (ジュネーブ本拠地) のExecutive Committee Memberとして活躍し、2022年6月にEcma Recognition Awardを受賞している[4]。 ビルゲイツやウオーレンバフェットが財産の99%を慈善活動に寄付することを誓約している「ギビング・プレッジ」に影響され、オックスフォード大学のクライストチャーチのBoard of Benefactorsや、英語圏で一番古い美術館である、オックスフォード大学のアッシュモリアンの寄付者としての名前が掲載されている慈善活動家としても知られている。 来歴1982年、早稲田大学理工学部を卒業し、留学先の英国で1986年まで学生であった。 1982年から1990年英国に留学中の1986年に、Richard Portes教授の25年来の親友のいるインベストメントバンクからの誘いで、日本人で初めてのロンドンベースのM&Aバンカーとなった。 まだ、日本国内でM&Aがブローカー (仲介) 的な印象があり、インベストメントバンクという業種が証券業と同じとみなされていたため、本格的なM&Aのアドバイスのできる日本人M&Aバンカーをヨーロッパのインベストメントバンクでは雇うことがなかった。房がM&Aバンカーになった初年度が、日本のバブル期の初年と重なり、日本企業のヨーロッパでの企業買収が盛んになった。この時期、ヨーロッパ企業の売手のアドバイザーを多く勤め、この時期、海外への投資を盛んに行っていた、五島昇、堤清二と知り合いになり1990年に日本に戻る。 1990年から2003年敵対的なM&Aのアドバイスを世界で最初1958年に始めた英国系のS.G.ウォーバーグ社のM&Aバンカーとして日本に帰国。S.G.ウォーバーグ社が世界最初の敵対的買収でアドバイスをした長年の顧客であるTI Group (2000年からSmiths Group) の買い手側アドバイザーとして、当時丸三証券会長の金子太郎が社外取締役をしていた、日本の船舶のシールの最大手のドーバージャパン (現日本マリンテクノ社) の50%強を丸三証券が売手のアドバイザーとして行った。日本での公開買付制度ができて初めての公開会社の買収であったため、ニュースとなり、日本の金融界で有名になった[5]。 1995年のスイス・バンク・コーポレーション (Swiss Bank Corporation 、現UBS) によるS.G.ウォーバーグ社の買収から始まったほぼ毎年行われたグループ再編ごとに昇進した。1998年にユニオンバンクオブスイスランドと合併して、新生UBSグループが誕生した時には、UBS信託銀行の会長兼CEOに就任し、結果、1千人の日本人を抱えていたUBSグループでの唯一の日本人経営会議メンバーであった。38歳での日本の銀行のトップは今でも珍しい。 資本主義で成功したものには慈善活動・寄付活動が必須であるとの考えから、2000年から寄付活動を活発にしている。 1999年にスキャンダルを起こした日本のクレディスイスのインベストメントバンクを建て直すため、2000年からクレディスイスと4年契約。クレデイスイスが雇ったニューヨークのヘッドハンター、コーンフェリーが、クレディスイスのインベストメントバンキングの立て直しができるのは房だけだと当時のCEOアレン・ウイート (Allen Wheat) にアドバイス。ウイートが、房に直接「あなたの友人たちが欲しいという金額の年俸を出し、優秀なインベストメントバンカーを雇うだけで良い」と伝え、房との契約にこぎつけた。 当時 (2000年初頭) のクレディスイスは、テックバンカーの草分けであるフランク・クワトロンがテックバンキングをリードして、世界でダントツのナンバーワンであった。DLJとの合併により、クレディスイスファーストボストンの傘下に入った、DLJダイレクトの日本での合弁会社DLJダイレクトSFGの取締役に就任。アメリカでは使い勝手がよいと評判のマーケットスピードというユーザーインタフェースをそのまま、日本に持ってこれるようにとエンジニアチームにアドバイスした。2001年にCEOに就任したジョン・マック が、世界中でのDLJダイレクトの売却との方針に反対して2年間の猶予をもらい、2003年に楽天に売却するまで取締役を務めた。当時クレデイスイス側のもう一人の社外役員に、後にイギリスの金融庁 (FSA) 長官になるヘクター・サンツ (Hector Sants) がいる。 2003年から妻から2001年クリスマス頃に、子供をイギリスで育てたいとの希望を伝えられ、子供を受け入れる学校を英国で探し2002年に当時、CEOであったジョン・マックに相談したところ、ロンドンベースで、中国と日本を中心としたオルタナティブ・インベストメント部のアジア戦略を立案することを条件に2003年にクレディスイスファーストボストンのロンドン支店へ移籍。ロンドンに移った直後に、MANグループから1億ドルの出資の、申し出があり、ジョン・マック氏が辞任することが決まったため、独立。2005年2月から運用を開始したヘッジ・ファンドが日本株のアジアヘッジと呼ばれる雑誌のファンドオブザイヤーに選ばれた[6]。 リーマンショック直後に、当時最大の投資家であったオーストラリアの年金が、全てのオルタナティブファンドからお金を引き上げたいと申し出たのをきっかけに、ヘッジファンド事業でできた資金を元に、ハイリスクハイリターンのプライベートエクイテイ投資に移行。現在では、特にベンチャー投資に集中。そのため、英国などではベンチャーキャピタリストとして知られている。 2016年1月に、オックスフォード大学の免疫学の権威であり、Paediatrics Departmentのヘッドでもあるホランダー教授から、発生生理学と再生医学を合わせた研究所を創る計画のための戦略のアドバイスを求められ、戦略アドバイザーに就任。ホランダー教授は、電子カルテプラットフォームの一番の問題はプライバシー保護であるということを房にアドバイス。GVE設立当初からホランダー教授は、同社の顧問としてホームページに掲載されている。 2020年に英国で本格的なサイバーセキュリティイノベーションセンターを設立し、英国ガーディアン紙からユニバーシティオブザイヤーに選ばれた工科系大学のアストン大学のビジネススクールで2021年2月にLeadership Storiesの第一回目のゲストスピーカーとして講演。同年にサイバーセキュリティイノベーションセンター教授に就任した[4]。 エピソード
ワクチン接種COVID19で世界がパニックになっていた時に、自ら戦略アドバイザーになっているPaediatrics Departmentの傘下のOxford Vaccine Groupがフェーズ3の治験のための募集をしたのに応じ、被験者となっている。SARS、MARS、COVID19と約10年毎に動物から人間に3回もコロナが感染しているので、4回目もあるだろうとの予想をしている。パンデミックを抑えるには、ワクチン開発、接種が基本と思っている。ただ、現在のようにワクチン接種による副作用で死者がでるような状況下では、世界の全員にワクチン接種を強制するわけにもいかないとの現実的な見解を持っている。 スキー事故以前の趣味のスキーであった。2017年に北海道で春スキーをしていた最終日の最後のスキーで、スピードを出し過ぎ、脊椎損傷で、首から下が動かなくなり、北海道の病院で入院した経験がある。奇跡的に回復したと、本人も認めている。 著作
講演、出演
脚注
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia