戦区
戦区(せんく、中国語: 战区、拼音: )とは、中華人民共和国における最大級の行政区画であり、2016年に習近平によって新編された軍管区のことでもある。 戦区は平時では所在地の税金取集・警察事務・建築建設・プロセッションの制圧・学生への軍国主義教育など行政的な仕事を戦区内の兵士たちに任せているが、戦争になると習近平の中国共産党中央軍事委員会から直接な命令を受け、統合作戦を担当する指揮所に変化する。その故、英語の戦区は「Theater command」と訳され、日本語の「総軍」に値する。 概要2016年2月1日に、国防部スポークスマンの楊宇軍は大軍区を廃止して新たに常設の統合作戦指揮組織である戦区を新編したことを表明した。新編された5個の戦区は人民解放軍の五大軍種及び人民武装警察の統合作戦指揮組織であり軍管区である。 90年代以降、大規模な戦役演習などで南京戦区や広州戦区など「戦区」を冠した概念が運用されていることが、中国国内の官製メディアの報道から明らかになっていた。しかし軍はその定義など明瞭な説明をしなかった。専門家の間では、その名称に「南京」や「広州」など大軍区と同じ名称を使っているために、戦区とは大軍区と同じ管轄域で演習や戦時において組織される指揮に特化したアドホックな組織と考えられていた。 廃止された大軍区においても管内の海空軍の協力による統合作戦指揮機能は有していたものの、各軍種の長との指揮命令系統の範囲が不明瞭であり、統合作戦を行うに当たり支障があった。このため各軍種の長の役割任務を軍政に限定し、作戦指揮権を統合整理し戦区に担わせた。 管轄域大軍区の時代もそうであったが、人民解放軍は管轄域に含まれる具体的な省・自治区・直轄市の名称および指揮組織の駐地について公式に明らかにしたことはなく、2013年の中国国防白書でようやく大軍区が管轄する集団軍の名称を公開している。おそらく新編戦区についても人民解放軍自身が管轄域および戦区司令部駐地を今後公開する可能性はかなり低いと考えられている。
首長
中国における軍管区制の変遷六大軍区(1949年~1955年)国共内戦後期の1948年11月1日、中国共産党中央軍事委員会は、全軍の組織編制・番号に対する統一規定を発布し、軍区は、一級軍区(大軍区)、二級軍区、三級軍区、軍分区に区分された(四級軍区体制)。一級軍区は党中央局に相当する区域に、二級軍区は中央分局に相当する区域に、三級軍区は省行政区に、軍分区は地(専)区に設置された。また、一級軍区は野戦軍に、二級軍区は兵団に、三級軍区は軍に、軍分区は師団に相当した。各級軍区は、所在区域の地区又は地点に基づき命名された。 一級軍区中華人民共和国建国時、5個一級軍区が存在し、1950年2月に西南軍区が設置され、六大軍区体制が確立した。
二級軍区この時期、18個二級軍区が存在し、1951年12月に西蔵軍区が設置された。二級軍区指揮機関は、兵団の指揮機関を兼務した。
1954年、山東、福建、雲南、西蔵、新疆の5個二級軍区を残して、その他の他省軍区は、全て三級軍区とされた。 三級軍区この時期、25個三級軍区が存在した。三級軍区指揮機関は、軍の指揮機関を兼務した。
その他、熱河、吉林、松江、龍江に4個省軍事部(軍級)が設置された。 十三大軍区(1955年~1985年)1955年2月11日、国務院と国防部は、中共中央局、中央分局の設置情況、中共中央と中央軍事委員会の全国戦略区に対する新しい区分に基づき、六大軍区を十二大軍区に改編することを決定した。各大軍区の大部分は、大都市に基づき命名された。同年5月1日、各大軍区は業務を正式に開始した。 1956年、福州軍区が増設され、十三大軍区体制が確立した。その後、1960年代に内蒙古、西蔵軍区が省級軍区に降格され、十一大軍区体制となった。 大軍区
七大軍区(1985年~2016年)長年に渡る文化大革命の影響で人民解放軍は弱体化し、1979年の中越戦争では、これが露呈することとなった。これに鑑み、鄧小平は、軍縮を行い、指揮統制機構の簡素化を図ることによって、人民解放軍の近代化を行うことを決心した。 1985年6月、中央軍事委員会拡大会議は、「軍隊体制改革、精簡整編方案」を可決し、100万人の兵力削減を行うと同時に、十一大軍区を七大軍区に統廃合することを決定した。 大軍区省軍区軍分区脚注関連項目 |