戊申詔書戊申詔書(ぼしんしょうしょ)は、1908年10月14日に官報 [1]により発布された明治天皇の詔書の通称。日露戦争後の社会的混乱などを是正し、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示そうとしたものである。この詔書をきっかけに地方改良運動が本格的に進められた。 詔書の概要第2次桂内閣の平田東助内務大臣が詔書案を閣議に提出した。小村壽太郎外務大臣と斎藤実海軍大臣が明治天皇を煩わせることを懸念して不必要との意見を述べたが、平田が現今の社会情勢においては天皇の威光を用いることでしか解決が図れないと強く訴え、閣議で了承された[2]。 その内容は大きく三つの段落に分かれ、第一段落では西洋列強との関係を緊密にして共に発展していくべきとする。第二段落では、国運の発展のためには国家の方針に国民が一致協力して臨み、勤労に励むことを勧めている。第三段落では、国民に対して五箇条の御誓文の理想が国運発展の基であるとし、その理想の完成のため尽すよう求めている[3]。 名称この詔書には公用文としての「題名」は付されていない。題名に準ずる「件名」は『官報目録』、『法令全書』ともに「上下一心忠實勤儉自彊タルヘキノ件」と付与されているが一般には用いられず、発布の直後には様々な名称で呼ばれ、次のような名称があった。
本文
大意今日、人文が日進月歩、世界の列国が互いに協同扶助して、その幸福と利益をともに享受している。朕(天皇)はますます国際的交誼をおさめ、友義をあつくし、列国とともにその慶福を享受しようと思う。考えると、日進月歩の世界の大勢に遅れないように進み、文明の恵沢を列国と一緒に得ようとするのには、言うまでもなく国家内部の国力増進発展に基礎を置かねばならない。内に国運発展がなくて、なぜ文明の恵沢を享受できるだろうか。しかるに日露戦争から日も浅く、諸々の政治がますます更張するべき時である。この際上下国内で心を一つにして、忠実にその業務を励み、勤勉倹約をして財産を治めて信義を守り淳厚な風俗を形作り、贅沢なうわべ飾りを避けて質素にし、心身の緩むことのないように互いをいさめあって、自ら心を励まして活動しなければならない。 わが皇祖皇宗の神聖な遺訓とわが日本の光輝く歴史は、太陽や星のごとく輝いている。それゆえに、国民がよくこの遺訓を守り、誠心誠意をもってゆくならば、国運発展の根本はこの点にあるであろう。 脚注参考文献
関連項目
外部リンク
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