愛洲久忠愛洲 久忠(あいす ひさただ、享徳元年(1452年) - 天文7年(1538年))は、室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。伊勢国(現在の三重県)出身。号は移香斎(いこうさい)。惟孝[1]、勝秀[2]と書かれる場合もある。 剣聖・上泉信綱は弟子と伝えるが、久忠の子・小七郎の弟子とする説もある。 生涯子孫である秋田県の平澤家[3]に伝わる文書・『平澤家伝記』(久忠の9世孫・平澤通有の著)によると、本名は愛洲太郎久忠、また左衛門尉や日向守と称したという。移香斎は法名である。幼少より剣術の才能があったため、武者修行をもって生業とし、諸国を巡ったり上洛したりしたと伝わる。[4] 『剣道の発達』(下川潮、1925年)では、『足利季世記 五』の「伊賀国に日置弾正忠豊秀と云者出来て、當流を射初め、故流の射形異形なりとて日本弓修行して江洲(滋賀県)に来り、佐々木高頼・同定頼二代に仕え弓の師と成り、入道して瑠璃光坊と号す。以徳遍く日本を廻り弓の弟子を尋ぬる、云々」とあるのが彼の武者修行の初見としており、また修業地域も近畿地方に限定されている。 平澤家が伝えていた「平沢氏家伝文書」によると、久忠は若い頃に九州や関東、明まで渡航したという。36歳のとき日向国鵜戸の岩屋(現・宮崎県日南市鵜戸村)に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いた。晩年は日向守と称し日向に住み、天文7年(1538年)、87歳で死去した。家は子の小七郎宗通(元香斎)が継いだ。[5] 一方で日向国鵜戸の修行について、秋田市の武道史家・青柳武明は「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」(『歴史公論』1935年10月号収録)のなかで新陰流外の伝えであって信用に足りないとし、尾張柳生流の柳生厳長は『剣道八講』(島津書房、1998年)で、正統伝書にないとしてこれを否定している。 小七郎宗通は永禄7年(1564年)に常陸の佐竹義重に仕え、天正3年(1575年)に猿飛陰流と流派を改名したともいわれる。ただし、平澤家の文書では陰流となっているようである。[5]
愛洲移香斎が登場する作品
脚注陰流関連項目 |
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