志方鍛志方 鍛(しかた きとう、1857年5月31日(安政4年5月9日[1][2][3]) - 1931年(昭和6年)1月21日[2][3])は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。広島控訴院長。関西法律学校創立者。 経歴武蔵国大里郡(現埼玉県大里郡)出身[2]。1876年(明治9年)司法省法学校に2期生として入り、1884年(明治17年)卒業する[3]。同年7月、大阪始審裁判所判事補に任じ、関西法律学校創立に関与する[3]。1886年(明治19年)11月、奈良支庁詰となり、ついで京都始審裁判所に転任し、1891年(明治24年)9月、大阪地方裁判所部長判事を経て、大阪控訴院判事となる[3]。1894年(明治27年)11月、東京控訴院に転じるまで関西法律学校で教鞭を執った[3]。のち甲府地方裁判所長、千葉地方裁判所長、大審院判事を経て、広島控訴院長となり、1921年(大正10年)退官した[3]。1931年(昭和6年)1月21日、東京にて没した[3]。詩も能くし詩集『恕堂遺稿』を残した[3]。 親族脚注参考文献
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