御宿町立御宿小学校(おんじゅくちょうりつ おんじゅくしょうがっこう)は、千葉県夷隅郡御宿町久保にある公立小学校。
五倫黌(ごりんこう)という別名を持つ[1]。
概要
- 2007年3月に同町岩和田の岩和田小学校が廃校となり、同年4月より統合された。
教育目標
「元気に学ぶ」-体も頭も心も元気-
重点目標
- 児童が動いて学ぶ活動を積極的に進める。
- 安全・安心な学校づくりを一層進める。
- 指導力の向上に努める。
めざす児童像
- 「体も元気」 健全な生活習慣 進んで運動する 進んで働く
- 「頭も元気」 自ら学ぶ 根気強く学ぶ 気付く
- 「心も元気」 元気にあいさつ よさを認める 夢を持つ
交通
なぎさマラソン
概要
- 毎年、11月後半もしくは12月前半あたりに午前中、御宿中央海岸で、毎年恒例の御宿小学校の「なぎさマラソン」がおこなわれており、大勢の保護者も応援に駆けつけるほどの恒例行事となっている。
- 砂浜を走るというのが、このマラソン大会の最大のポイントとなり、各学年の男女別に走り、距離は5,6年生の1000mが最長となっている。
沿革
御宿小学校
- 1874年(明治7年)2月 - 浜小学校、久保小学校創立。
- 1877年(明治10年)5月 - 久保小学校を分割し高山田小学校を設置。
- 1879年(明治12年)1月 - 久保小学校を浪花村岩和田小学校附属分教場、高山田小学校を布施村上布施小学校附属校に改める。
- 1881年(明治14年)10月 - 第2次教育令に基づき浜小学校に初等科・中等科を置く。
- 1885年(明治18年)1月 - 上布施小学校附属高山田教場、岩和田小学校附属六軒町教場、岩和田小学校附属久保分教場を浜小学校に移管。
- 1887年(明治20年)2月 - 浜小学校を須賀尋常小学校と改称、高山田簡易科を設置。
- 1889年(明治22年)6月 - 須賀尋常小学校を御宿尋常小学校と改称、高山田簡易科を高山田分校と改称。
- 1891年(明治24年)2月1日 - 久保分教場、六軒町分教場廃止。
- 1892年(明治25年)5月 - 高山田分校廃止。
- 11月 - 高等科を併置、御宿尋常高等小学校となる。
- 1902年(明治35年)9月28日 - 大暴風雨のため校舎3棟が倒壊、村内各寺院を教室に充てて授業を行う。
- 1907年(明治40年)5月 - 校舎再建のため村内各戸あたり5厘の日掛貯金を開始。
- 1914年(大正3年)7月 - 新校舎落成。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 御宿町国民学校と改称。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 御宿町立御宿小学校と改称。
- 1959年(昭和34年)3月6日 - 白鳥省吾作詞・佐藤吉五郎作曲による校歌を制定。
- 1961年(昭和36年)10月 - 校旗を制定。
- 1967年(昭和42年)10月27日 - 校舎が全面改築され、鉄筋コンクリート3階建の新校舎が落成。
- 2007年(平成19年)3月 - 岩和田小学校が御宿小学校に統合され閉校となる[9]。
岩和田小学校
- 1874年(明治7年)2月 - 岩和田村に岩和田小学校設立、安立寺を仮校舎とする。
- 1889年(明治22年)4月 - 法蔵寺に移り仮校舎とする。
- 1894年(明治27年)1月 - 校舎が完成し移転。
- 1902年(明治35年) - 高等科を設立し岩和田尋常高等小学校と改称。
- 9月28日 - 大暴風雨により校舎倒壊、大福寺・浄願寺・安立寺に分散し授業を実施する。
- 1904年(明治37年)4月24日 - 校舎再建。
- 1908年(明治41年)4月1日 - 高等科を廃止し岩和田尋常小学校に戻る。
- 1941年(昭和41年)4月1日 - 浪花村立岩和田国民学校と改称。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 浪花村立岩和田小学校と改称。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 町村合併により御宿町立岩和田小学校と改称。
- 1974年(昭和49年)2月 - 加藤まさを作詞・作曲による校歌を制定。
- 2007年(平成19年)3月 - 御宿小学校に統合され閉校[9]。
「五倫黌」
御宿小学校は「五倫黌」(ごりんこう)の別名を持つが、その由来は以下の通りである。
1902年(明治35年)9月28日、暴風雨(足尾台風)により、御宿小学校の校舎3棟が全て倒壊し、村内の各寺院を教室として授業を行うことになった。当時の御宿村の財政では校舎の再建は不可能であったため、御宿小学校校長の伊藤鬼一郎[注釈 1]は、校舎再建費用を捻出するため、全村民に対して、1戸あたり毎日5厘ずつの日掛け貯金を呼びかけた。この貯金は全村民の協力のもと、1907年(明治40年)5月1日に正式に発足し、1912年(明治45年)5月1日からは1戸あたり1日1銭に値上げされた。この結果、1914年(大正3年)7月までに1万5000余円の貯金が集まり、共同貯金会の寄付金と合わせ3万余円となった。新校舎は1911年(明治44年)4月に起工し、1914年7月に落成した。
佐倉連隊区司令官の黒田善治[注釈 2]は、御宿を訪れた際に、この「五厘講貯金」と呼ばれた貯金の話を知って感激した。黒田は後年、1930年(昭和5年)10月に伊藤元校長を訪問し、「五倫黌」と書かれた扁額を寄贈した。「五倫黌」は、「五厘講」と儒教の「五倫」、学校を意味する「黌」とをそれぞれかけたものである。この扁額は校舎の玄関に掲げられていたが、1967年に校舎が全面改築された後は校長室に飾られている[1]。
御宿小学校では、児童会活動の中に「五倫委員会」があり、同校における望ましい児童の姿を表す言葉として「五倫の子」という表現がされている。また、御宿小学校のホームページは「ごりんのひろば」と命名されている[1]。
脚注
注釈
- ^ 1867年5月24日(慶応3年4月21日) - 1932年(昭和7年)1月25日。御宿郷外一三郷の総代名主の家に生まれる。1889年(明治22年)4月千葉県尋常師範学校を卒業後、同年9月に五井小学校校長に就任。2年後の1891年(明治24年)5月に御宿小学校校長に転任し、1928年(昭和3年)4月まで37年間にわたり在任した。
- ^ 「佐倉連隊区司令官黒田善治少将」[17]等と記す文献があるが、黒田の佐倉連隊区司令官在任期間は1912年9月から1914年8月までで、当時は陸軍歩兵中佐であり、陸軍少将となったのは1918年7月である。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク