張英華
張 英華(ちょう えいか)は中華民国の政治家。北京政府の要人で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)にも加入した。字は月笙。 事績省立北洋大学を卒業後、イギリスに留学する。マンチェスター大学などを卒業した。帰国後は、私立北京民国大学の教授となる。1918年(民国7年)、四川省川南塩務稽核所経理となり、翌年に四川塩務使代理に就任した。1921年(民国10年)8月、河東塩運使に異動する。翌年1月には、甘粛省財政庁長に就任した。 同年6月、蘇州関監督を経て、8月に北京政府中央で財政部次長兼塩務署署長、稽核所総弁、全国財政討論会委員長に就いた。1923年(民国13年)、張紹曽内閣の劉恩源が中途辞任したのを受け、張英華が財政総長署理となる。このとき、幣制局総裁と全国煙酒事務署督弁も兼ねた。続く高凌霨内閣でもそのまま財政総長署理にあったが、7月、辞任した。 1925年(民国14年)、直隷派・呉佩孚の下で、十四省討賊聯軍籌餉処督弁に任命される。翌年5月には、河南省省長に任命されたが、実際には就任しなかった。それから政界を一時引退していたが、後に中国青年党に加入する。張英華は天津青幇の大物でもあり、小日向白朗(尚旭東)や石友三とも交友があった[1]。 1940年(民国29年)3月18日、汪兆銘(汪精衛)が南京で主宰した中央政治会議に、張英華と趙毓松は中国青年党代表の議員として出席した[2][3]。汪兆銘政権が正式に成立すると、張は国民政府委員会委員に任命される[4]。しかし、中央政治会議を改組した中央政治委員会の委員や五院正副院長、部長(閣僚)には政権崩壊まで一度も任命されなかった。経歴や年齢では後輩の趙(1897年生)に比べ、張が政権内で冷遇されていたことは否めない[5]。 日本敗北後の1945年(民国34年)12月5日、斉燮元らと共に、張英華は軍事委員会調査統計局(軍統)に天津で逮捕された[6]。しかし、その後の張の行方は不詳となっている。 注参考文献
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