弘明寺
弘明寺(ぐみょうじ)は、神奈川県横浜市南区弘明寺町にある高野山真言宗の寺院。瑞應山蓮華院と号し、横浜市内最古の寺院である。本尊の木造十一面観世音菩薩立像(通称「弘明寺観音」)は国の重要文化財。 寺名は町名や駅名などにも広く使われ、江戸時代から1889年(明治22年)までは一帯を弘明寺村(のちに弘明寺町)と呼んでいた[2]。 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:ありがたやちかひの海をかたむけて そそぐめぐみにさむるほのやみ 概要寺名は、鎌倉時代には「求明寺(ぐみょうじ)」と表されていた[3]。その後、呉音で同じ「ぐ」と読む観音経偈文にある「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の弘の字を当てて弘明寺に改めたといわれている。 2004年(平成16年)、弘明寺が事務局となり「病苦研究会」という真言宗有志の団体が形成されている。終末期医療における心理面のサポートに仏教思想を活かすための試みである。 歴史寺伝によると、721年(養老5年)にインドの僧・善無畏が当地に結界を創り、737年(天平9年)に行基が観音像を刻んで一宇を建立したと伝えられ、行基をもって開基としている。 弘仁年間(9世紀初期)には空海が双身歓喜天(弘明寺聖天)を彫刻し安置したという。 1044年、光慧上人により瓦葺き本堂が建立された。本尊である木造十一面観音立像の彫刻予想年代と、この本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われる。 戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三観音の十四番札所として信仰を集めた。 明治時代を迎えると、仏教寺院は全国で大弾圧を受け、当山も寺領は御朱印と共に新政府に没集された。明治中期には無住職となって寺伝、寺宝の数々、住職系図までもが紛失する事態となった。 1901年(明治34年)、渡辺寛玉師が住職に就任すると、弘明寺保勝会が設立され、弘明寺の復興と町おこしに皆邁進した。大岡川沿いの桜並木も、この当時植樹された。 境内かつては広い寺有地を有していたが、廃仏毀釈による公有地化で北側の大半(現・弘明寺公園)を横浜市へ譲渡し、北側には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)弘明寺駅が開業した。さらに駅周辺では寺自身が民有化を進めたことなどにより、寺有地は過去の約2割にすぎなくなっている。
祭事・年中行事
文化財観音像など秘仏とはなっているが、内陣参拝で拝観できる。
周辺元は境内であった弘明寺公園と、弘明寺商店街のほぼ中央を横切る大岡川の両岸は、横浜市内でも有数の桜の名所となっている。 弘明寺から鎌倉街道まで、アーケード商店街「弘明寺商店街」として下町の賑わいを残す。レトロモダンな雰囲気を求めて、しばしばテレビ番組やCMのロケ地として使われる。このアーケード街は、江戸時代に栄えた弘明寺の門前町としばしば混同されるが、終戦後の闇市を起源とするものであり、同じものではない。江戸時代の弘明寺の門前町は、現在の蒔田付近である。 鎌倉街道への寺入口の門前街路の交差点は、かつて横浜市電の西の終点であり、鎌倉方面への路線バスと市電の乗り換えターミナルとして交通の要であった。また、横浜国立大学工学部の学生街としても賑わった。現在はそのターミナルは港南区の上大岡駅前に移り、かつての学生街・市電ターミナルとしての賑わいは失われた。 横浜国立大学工学部が移転した跡地には横浜国立大学附属横浜中学校と南警察署や放送大学神奈川学習センターがあり、横浜市電の跡地には横浜市営地下鉄の弘明寺駅が建設され、京浜急行電鉄の駅と同名の駅名が付けられた。 所在地・交通所在地:神奈川県横浜市南区弘明寺町字山下267 鉄道京浜急行本線・横浜市営地下鉄ブルーラインの同名の駅があるが、両駅間は500mほど離れている(位置関係は弘明寺駅を参照)。
バス
前後の札所その他参考文献
脚注
関連項目外部リンク
|