広瀬惟然広瀬 惟然(ひろせ いぜん / ひろせ いねん[1]、慶安元年(1648年)? - 宝永8年2月9日(1711年3月27日))は江戸時代の俳人である。 生涯美濃国関(現・岐阜県関市)に酒造業の三男として生まれた。通称は源之丞。別号は、素牛、鳥落人、風羅堂、風羅坊[2]、湖南人、梅花仏など[3]。14歳の時、名古屋の商家、藤本屋に養子に入るが、貞享3年(1686年)39歳の時、妻子を捨てて関に戻り出家した。貞享5年(1688年)6月、松尾芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、岐阜に逗留した折に芭蕉と出会い門下となった。翌年にも『奥の細道』の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後関西に滞在した芭蕉に近侍した。元禄7年(1694年)、素牛の号で『藤の実』を刊行する。芭蕉没後は「奥の細道」の逆順路の旅などもした。元禄15年(1702年)ころから芭蕉の発句を和賛に仕立てた「風羅念仏」を唱えて芭蕉を追善行脚した。晩年は美濃に戻り、弁慶庵に住んだ。 惟然の口語調俳句惟然の俳句には擬音まじりや、口語調の俳句があることが特徴である。以下に例を示す。
撰集
顕彰関市には、弁慶庵-惟然記念館があり、惟然の偉業を偲ぶための作品や俳諧関係の文献が展示されている。
関市西日吉町50番地1。関善光寺の隣り。
アクセスは、 脚注参考文献
|