広島臨時仮議事堂
広島臨時仮議事堂(ひろしまりんじかりぎじどう)は、かつて広島県広島市にあった仮設の国会議事堂。 日清戦争開始にともない臨時首都となった広島で帝国議会(第7回帝国議会)が開催されることになり[1]、その際に市中心部に建てられた。設計者は妻木頼黄、設計から竣工までほぼ20日間という突貫工事で作られた[2]。東京以外に唯一造られた国会議事堂である[3]。議会終了後議事堂は撤去され、現存していない。 沿革1894年(明治27年)7月、日清戦争勃発。当時山陽鉄道は広島駅が西端であったこと、第5師団の拠点があったこと、宇品港(広島港)が事実上軍港として整備されていたことから、広島が臨戦地となり大本営が置かれた[4]。明治天皇、および政府高官も移ってきたことから事実上首都として機能し(日本の首都参照)、帝国議会を広島で開くことになった[5]。同年9月22日に公布された詔書[6]により急遽決定したもので、議員召集日も決定していた[7]。 伊藤博文首相は鍋島幹広島県知事に議事堂候補を調べるよう指示、鍋島はその中で過去に仮の県庁舎として用いたことがある寺町の仏護寺(現中区本願寺広島別院)[8]を調査し議事堂として利用するには手狭であると報告、結果新しく議事堂を建設することが決定した[9]。中根重一貴族院および水野遵衆議院の両書記官長が加わった協議の結果、広島市の中心部である西練兵場の南東端の憲兵本部前、現在の中区基町中国電力基町ビル敷地に、設けられることが決定した[9]。この地は元々広島城の南東端の外堀近くにあたり、廃藩置県後城の本丸に広島鎮台のち第5師団が置かれた際に城の南側にあたるこの一帯は練兵場として整備された場所である。 同年10月14日仮設議事堂竣工、翌日である同年10月15日議員招集、同年10月18日第7回帝国議会開会、会期は4日間、臨時軍事費予算案などが組まれた[3][10]。その後日清戦争は勝利に終え、明治天皇は1895年(明治28年)4月27日東京へ戻っていった[11]。 その後は、陸軍予備病院、第5師団司令部、広島陸軍地方幼年学校開校に際しその仮校舎など、転々と陸軍の仮施設として用いられた後、1898年(明治31年)に取り壊されている[12]。 略歴
構造
妻木頼黄
設計及び施工管理者は妻木頼黄内務省技師、その助手として大迫直助・田尻政太郎・湯川甲三の技士3人がついた[16][15]。施工者は妻木の意向により地元広島の大工が用いられ[23]、最終的には1,000人近くの大工が参加している[24]。建材に関しても、妻木の意向によりほぼ広島のものが採用された[23]。 西側を正面とし、車寄を持つ玄関が中央に張り出し、切妻造板葺きの右(南側)に貴族院・左(北側)に衆議院と両議場を配し、背面(東側)に便殿(天皇の行在所)を置き、玄関から便殿まで通路で結ばれそれを軸に左右線対称に配置されている[15]。通路にそって各事務室が置かれ採光のため中庭が4つ造られている[25]。正面玄関とは別に、両議場に傍聴人用の入口が付く[25]。 諸元![]()
主な間取![]()
特徴→「木造軸組構法」も参照
ほぼ20日間で仕上げなければならなかった官庁営繕事業であることに加え、当時国内にある建築物としては最大級のものを、洋小屋の知識が全国に普及する過渡期の中での地方の大工によって建てなければならない、という困難な状況下で工事が行われた[28]。この中で妻木はいくつか工夫をこらしており、下記はその一部である。
妻木は後に、この功績により叙勲を受けている[26]。ただ、このような仮設構造の上、議事堂の近くには軍馬がおり、議事堂内で執務する職員や速記者は、ハエの襲来に悩まされたという逸話が残っている[29]。 現状撤去された後は、再び西練兵場として用いられた。1945年広島市への原子爆弾投下によって周辺は壊滅的な被害を受ける。戦後の都市開発により、現在はビルが建ち並ぶ。唯一の目印として、中国電力基町ビルの正面入口付近に「広島臨時帝国議会議事堂跡碑」が建っている。 また、仮議事堂が取り壊される際に、便殿のみ比治山に移設され、戦前の観光名所となった。しかし、1945年の被爆により壊滅したため、現存しない。
脚注
参考資料
関連項目 |
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