平 (京丹後市)
平(へい)は、京都府京丹後市丹後町の地名。大字としての名称は丹後町平(たんごちょうへい)。平と井上の2集落からなる[7]。宇川地域に含まれ、上宇川の中心地区であるとされる[7]。2016年(平成28年)9月30日時点の人口は245人[7]。 地理宇川の河口部の沖積地に位置し[8]、開けた土地に水田が広がっている[9]。宇川の西岸に平集落が、東岸に井上集落がある[8]。日本海と並行して国道178号が通っており、井上集落の東側に丹後縦貫林道が通っている[8]。平集落の西側は依遅ヶ尾山に続く山地となっている[8]。宇川はアユの生息地(宇川のアユ)として知られ、1955年(昭和30年)以降には京都大学による主要調査地となった[10]。平にある中瀬橋親水公園(宇川親水公園)は、毎年5月に上宇川漁業協同組合が地元保育園児らとともに稚アユを放流する主要なポイントのひとつである[11][12]。 地内の水源は宇川からひいた水のほかに、飲料水に適した水質の良い井戸水が3カ所ある[13]。 京丹後市では1927年(昭和2年)の北丹後地震の甚大な被害が代々語り継がれてきたが、激震地から遠い宇川地域ではほとんど無被害だった[14]。しかし上宇川地区の最西部にある平では納屋2棟が半壊した[14]。 小字字としての丹後町平では、宇川の西岸の集落を「平(へい)」、東岸の井上集落を「平元井上(へい・もといのうえ)」として、歴史的な経過から別の集落とみる名残がある[15]。 平
平元井上
隣接する町字・山岳
歴史古代・中世宇川河口の砂丘地帯に縄文時代前期から古墳時代にかけての遺跡である平遺跡がある[8][16]。2020年(令和2年)に隣区の丹後町上野で京都府内最古の縄文遺跡「上野遺跡」が確認されるまで、丹後町ではもっとも早期から人が住むようになった一帯とみられていた[17][18]。 平の集落の起源は、複数回の火災により記録がすべて焼失してしまっているため、明らかではないが、八幡神社や常徳寺の存在から、遅くとも天安年間(857年 - 859年)には集落が形成されていたと推測され、30余戸が農業を営んでいたとみられる[19][20]。その後、年を追うごとに戸数が増えたためやがて農業だけでは生計を維持することが難しくなり、一部は沿岸に出て海藻や貝類の採集を生業とした[20]。 中世には石清水八幡宮の宿院極楽寺領として平庄(へいのしょう)があり、平庄は当地に比定されている[9]。治安3年(1023年)の『石清水八幡宮文書(石清水文書)』に現れるこの記録が文献における「平」の初出で、その後寛喜4年(1232年)と長禄3年(1459年)の石清水八幡宮領に関する史料にも登場する[21]。 一方、応永11年(1404年)に平の地内にある八幡宮に奉納された鍔口銘には「敬白八幡宮丹後国宇何庄」と記されており、この頃すでに平が宇川庄の領域に含まれていたことが推察される[21]。 近世江戸時代のこの地域ははじめ宮津藩領であり、享保2年(1717年)に幕府領となった[22]。当初は宇川村に含まれ、元禄12年(1699年)の『丹後国郷帳』には「宇川枝村」として「平村」が記載されている[21]。その後の現存する記録では単独表記となり、分村独立したとみられる[21][22]。『延宝郷村帳』における村高は126石余、『宝永村々辻高帳』における村高は212石余、『天保郷帳』や『旧高旧領』における村高は214石余[22]。徳川2代目秀忠の時代における『宮津旧記』によれば平村の村高は212石5斗6升8合で、宇川組20カ村のうち袖志村、久僧村に次いで3番目に多く、上宇川地域ではもっとも多い[17][23]。 近代1868年(明治元年)には久美浜県に区分され、1871年(明治4年)には豊岡県の所属となったが、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた[22]。1878年(明治11年)には平郵便局が開局し、1901年(明治34年)には中浜郵便局に吸収合併されたが、1924年(大正13年)に特定局として再び開局した[22][24]。 1887年(明治20年)には平村が井上村を合併した。1889年(明治22年)4月1日には町村制が施行され、中浜村・久僧村・谷内村・上野村・上山村・尾和村・袖志村が合併して竹野郡上宇川村が発足。上宇川村の大字として平が設置された。1908年(明治41年)には宇川に架かる宇川橋の渡り初めがなされた[25]。1932年(昭和7年)3月には宇川に架かる中瀬橋が竣工し[26]、1938年(昭和13年)には工費13,800円で宇川橋がかけ替えられた[27]。 明治・大正期の平出身者で知られた人物に、弁護士で元衆議院議員の岡田泰蔵がいる[28]。1868年(明治元年)に平に生まれ、小学校卒業後に京都に出て漢学を学んだ。その後、東京にて法曹界の重鎮であった岡山兼吉の書生となり、留学後、神戸で法律事務所を開業した[29]。1908年(明治41年)京都府郡部から衆議院議員に当選、立憲政友会に所属し、政治家を2期務めた後は文筆活動に専念し、1919年(大正8年)に東京博文館から『立言十一章「国政夜話」』を刊行した[29]。 現代1952年(昭和27年)には平に上宇川村直営の診療所が開設された[30]。1955年(昭和30年)2月1日、間人町・豊栄村・竹野村・上宇川村・下宇川村の5村が合併して丹後町が発足。丹後町の大字として平が設置された。1955年(昭和30年)時点の人口は110世帯453人[22]。1949年(昭和24年)には上宇川漁業協同組合が発足したが、同組合は1964年(昭和39年)に海の漁業権を放棄し、淡水のみを対象とする漁業組合となった[31]。 1975年(昭和50年)時点の人口は96世帯371人[22]。1982年(昭和57年)時点の人口は108世帯412人[8]。 2016年(平成28年)9月30日時点の人口は245人[7]。 地名の由来地元では、平家落人部落に由来する地名であるとされる[7]。永万元年(1165年)には平重盛が父の平清盛から丹後国を与えられ、重盛の五男である小松忠房が丹後守となったとされる[7]。文治元年(1185年)に平家が滅亡すると、平家一門の人々は丹後半島の山間部に落ちのびてこの地にたどり着いたと伝えられる[7]。 また、宇川河口の平地に位置することによる地名ともみられる[21]。20世紀以降は「へい」と呼ばれているが、集落歴史上の初めからこの音で呼ばれていたのかは定かではない[21]。 産業漁業→「宇川のアユ」も参照
享保年間(1716年~1736年)、京都代官所の巡視の際に鮎漁の権利が下付され、以後は投網による鮎漁が盛んになった[22]。1934年(昭和9年)には宇川鮎の一貫匁が3円50銭から4円程度で、土産物用箱に入れた粕漬は10尾が80銭で宣伝された[32]。戦後には京都大学によって宇川における鮎の生態調査が行われ、この河川における鮎は宇川のアユとして知られている。 平の漁業者が所属する上宇川漁業協同組合は、1964年(昭和39年)に海の漁業権を放棄しているため、アユ漁以外の漁業はその後は行われていない[33]。 その他の産業近世、アユ漁が盛んになった後も、平地に恵まれていることから農業を営む者が多かったが、明治大正期になると丹後ちりめんなど機業従事者が増加し、昭和期には海水浴客を相手にする民宿も増加した[8]。農業では宇川果樹生産組合が組織されており、丹後縦貫林道の沿道に造成された国営農地(宇川第2団地)の2.4ヘクタールで、1995年(平成7年)以降、2015年(平成27年)時点で4軒の農家がブドウや梅を生産している[34]。 江戸時代中期から昭和初期にかけては、平で農業に従事する者の多くが冬場は出稼ぎとして伏見などの酒屋に出向き、杜氏や酒税の検査立会事務などを務めた[35]。平のほか宇川地域一帯で酒屋への出稼ぎ労働は盛んにおこなわれ、宇川杜氏または丹後杜氏と称され、伏見醸造界に名を刻んだ[36]。 教育幕末から明治初期にかけての平村には、1863年(文久3年)開設の2軒と1868年(明治元年)開設の1軒の計3軒の寺子屋があり、僧などが習字師を務めていた[37]。1874年(明治7年)には後の第6区平村平学校の前身となる学校が開校する[37][38]。1876年(明治9年)に近接する遠下地区が平の学区に加盟したことによる児童数の急増を受けて、1878年(明治11年)に建坪33坪の2階建の校舎が新築された[37][38]。 1888年(明治21年)、近接する字中野から305坪の敷地提供を受け、中野に校舎を移転しさらに2棟の校舎を増築する[38]。この時点で、平学校の所在地は平ではなくなっているが、1890年(明治23年)の学制改革に伴い「平尋常小学校」と改称し、分教場を字鞍内において、三山、小脇、竹久僧をあわせた4集落の児童を受け入れた[38]。この分教場はのちの虎杖(いたどり)小学校である[39]。平尋常小学校は、1893年(明治26年)には温習科を設置して卒業生の教育も担ったが、翌年の高等小学校組合の設立とともに消滅した[38]。平尋常小学校は、上宇川第一尋常小学校と改称し、のちに上宇川小学校となった[40]。 交通1933年(昭和8年)に宇川バスが開通し、翌1934年(昭和9年)に網野-間人間で運行していた三日月バスと合併して竹野郡乗合自動車株式会社が設立されるまで[41]、峰山方面には依遅ヶ尾山の峠を越え、宮津方面へはやはり依遅ヶ尾山を越えて男山に出て渡し舟を使うか、碇峠から伊根に抜けるのが一般的であったとみられる[42]。 2021年(令和3年)現在の平地区には丹海バスのバス停留所が1カ所あり、経ヶ岬から峰山のショッピングセンター前までを往復する路線「海岸線」が、上下線ともに1日7便運行される[43]。 施設
名所・旧跡・観光スポット名所
平遺跡
旧跡寺社
祭事・催事脚注
参考文献
外部リンク
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