平親範
平 親範(たいら の ちかのり)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての貴族・僧侶。桓武平氏高棟流、従三位・平範家の嫡男。官位は正三位・参議、贈正一位・左大臣。 経歴鳥羽院判官代を経て、久安元年(1145年)近衛天皇の六位蔵人に補せられ、まもなく従五位下に叙爵した。伯耆守・勘解由次官を務めた後、後白河朝初頭の保元2年(1157年)正月に五位蔵人に補せられ、同年8月に父の平範家右大弁を辞する代わりに親範が右少弁に任ぜられる。その後は、保元3年(1158年)従四位下・右中弁、永暦元年(1160年)従四位上・左中弁、応保元年(1161年)正四位下、長寛2年(1164年)蔵人頭と後白河院政期前期に急速に昇進を果たし、長寛3年(1165年)参議に任ぜられ公卿に列した。 大弁(左大弁・藤原資長、右大弁・源雅頼)の職に空きがなかったこともあって、親範は参議任官時に弁官を離れ、嘉応3年(1171年)になって民部卿を兼ねている。またこの間、仁安3年(1168年)従三位に叙せられ、承安元年(1171年)正三位に至った。 承安4年(1174年)38歳の若さであったが、病気のため大原極楽院にて出家。戒師は来迎院縁忍、法名は相蓮房円智。 建保2年(1214年)には出雲寺を再興、同寺に父祖伝来の平等・尊重・護法の3寺を併せた堂[1]を建立し、私領を寄進した。寄進地は、伯耆国宇多河東荘・矢送荘、但馬国木前荘。 承久2年(1220年)9月28日薨去。享年83。没後、正一位・左大臣の官位を贈られている。 著作として『親範記』(散逸)・『相蓮房円智記』がある。勅撰歌人として『千載和歌集』に1首入集。 官歴『公卿補任』による。
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