平田 生雄(ひらた いくお[1]、1950年6月17日[1] - 2009年4月3日[2])は、広島県広島市出身の元サッカー選手(MF/DF[1])、元サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。
来歴
幼少期は長嶋茂雄に憧れた野球少年であったが[3]、小学6年時の1962年に似島へ戻った事が転機となる。当時実家の2階には広島市立似島中学校サッカー部を創部した渡部定彦が下宿していたほか、似島は当時「サッカーの島」[4]と言われたほどサッカーの盛んな所で、進学した似島中で渡部の指導の下サッカーを始めることになる[3][5][6]。似島は第1次世界大戦で中国・青島にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある[2]。中学卒業後は進学校の広島皆実高校へ進み[3][2]、3年次の1968年には平木隆三監督率いる全日本ユース代表に選出されている[1][3]。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で[7]、多くがJSL各チームの主力選手として活躍した[8][9]。高校卒業後は1969年に法政大学へ進学し、2年次の1970年には全日本大学サッカー選手権大会で優勝を果たす。当時の法政は早大や慶応などに比べるとサッカー界ではまだ実績は少なかったが、平田が卒業した翌1973年に関東大学リーグで優勝するなど上昇期であった[2]。
大学卒業後の1973年、山口県熊毛郡平生町を拠点に活動していたJSL2部の永大産業へ入部[1][2]。永大は恩師である渡部定彦の実兄・渡部英麿が中心になって強化しており、その監督である大久保賢は高校の先輩でもあった。チームは1974年からJSL1部入りし、平田も同年と1975年にDF登録で11試合に出場している[2]。1976年以降は選手ではなくマネージャーとして活動したが、親会社の永大がオイルショック以降の不況に伴う業績不振により1977年を以て廃部となってしまい[2]、廃部後は塩澤敏彦監督と共に選手の再就職先を探した。
その後は1978年、永大のコーチであったセルジオ越後と共に「さわやかサッカー教室」[10]を開設[1][2][11]。越後と共に日本中を指導・普及して周り、2004年までで延べ人数約45万人の指導をしてきた[1]。この間の1996年にはJFA 公認S級コーチライセンスを取得[1]し、関西地方のサッカー発展にも貢献した[1][2]。
2009年4月3日、脳腫瘍のため死去。満58歳没[2]。
個人成績
脚注
関連項目
外部リンク