平田正判
平田 正判(ひらた まさちか、1891年(明治24年)2月11日[1] - 1960年(昭和35年)7月17日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2] 経歴1891年(明治24年)に島根県で生まれた[1]。陸軍士官学校第25期、陸軍大学校第34期卒業[1]。アメリカ駐在を経て[2]、1936年(昭和11年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に駐米武官に着任[2]。1938年(昭和13年)4月8日に参謀本部附を経て[2]、7月15日に台湾歩兵第2連隊長に就任し[2]、日中戦争に出動[1]。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将進級と同時に陸軍習志野学校幹事に就任[1][2]。同年9月30日に北支那方面軍参謀副長に転じ[1]、1941年(昭和16年)3月1日には陸軍公主嶺学校幹事に着任[1]。11月6日には陸軍中将に進級し[2]、第61独立歩兵団長(東部軍)に就任[1]。1942年(昭和17年)8月に東部軍司令部附を経て[1]、1943年(昭和18年)3月1日に留守第51師団長に就任[1]。1944年(昭和19年)1月7日に第22師団長(第23軍)に親補され[1]、中国戦線に復帰[1]。大陸打通作戦に参加し[1]、南寧から仏印に侵攻した[1]。その後、第18方面軍隷下に編入され[1]、終戦時はバンコクに位置した[1]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。 脚注参考文献
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