平尾賛平商店
平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)は、かつて東京に存在した日本の化粧品メーカーである。 レート(仏語: LAIT)ブランドで知られる。「lait」はフランス語で「乳」を意味する語であり、フランス語を化粧品名にした日本初の企業である[1]。ただし、「レート」は英語読みで、フランス語の発音では「レ」。平尾昌晃は初代の曽孫にあたる。 略歴・概要初代賛平と小町水1878年(明治11年)、静岡出身の初代平尾賛平が東京市日本橋区馬喰町1丁目6番地(現東京都中央区日本橋馬喰町1丁目)で化粧品店を開業、これが平尾賛平商店の創業である[2]。同年、化粧水「小町水」を発売し[3]、翌年1879年(明治12年)2月、屋号を「岳陽堂」とする[2]。1891年(明治24年)、慶應義塾在学中の二代目平尾賛平の命名により、「ダイヤモンド歯磨」を発売する[2]。 このころ初代賛平は、彫刻家の後藤貞行や高村光雲との交流があり、とくに東京美術学校(現東京藝術大学)教員時代の高村には大いに資金援助し、谷中に持ち家を持たせもしたが、高村は律儀に返済をしている[4]。 二代目賛平とレート化粧料1898年(明治31年)1月、初代平尾賛平が死去、二代目(平尾聚泉)が社長に就任[2]、同年6月、東京市日本橋区の明治座での新狂言公演『児雷也豪傑譚語』で、児雷也役の市川團十郎 (9代目)の背景に商品名「日本美人」の看板のある錦絵広告を出した[1]。 1908年(明治41年)には大阪に支店を出して関西進出、同年、「ダイヤモンド歯磨」を「金剛石牙粉」と称して中国大陸にも進出、北京、天津、香港にも「広告隊」を出した[5]。二代目は、広告に工夫をこらし、1918年(大正7年)、クリームと白粉をセットした画期的商品「レートメリー」を発売した。明治から大正にかけて、同社の「レート化粧料」(LAIT TOILET)は、大阪の中山太陽堂の「クラブ化粧品」と人気を競い、「東のレート、西のクラブ」と称された[1]。 1874年(明治7年)深川生まれ、慶應義塾正科を1891年(明治26年)に卒業した二代目平尾賛平[2]こと平尾聚泉は古銭収集で知られ、新聞に広告を打って募集し古銭を買い集めた。1929年(昭和4年)3月には、「平尾太郎」名義で著書『平尾賛平商店五十年史』(平尾賛平商店)を出版、1932年(昭和7年)、聚泉は『昭和泉譜』を著し、1937年(昭和12年)には「平尾賛平」名義で『初代平尾賛平小伝』を著し、出版する。1938年(昭和13年)、同社の創業60周年を記念し、寛永通寳のような古銭を模した記念コインを発行する。聚泉の古銭を所蔵する邸宅は「平尾麗悳莊」として知られ、多くの和綴の古銭拓本を制作した。このころ、京城(現在のソウル特別市)にも進出し、現地紙『東亜日報』に広告を打ち、京城三越百貨店(現・新世界百貨店)のある中心街の本町(現忠武路)に「レートクレーム」と大書した巨大な広告塔を建てた。 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)、同社は「レート」に商号変更したが、 1954年(昭和29年)、会社更生法の申請が認められず、創業76年にして廃業した。 現代音楽の作曲家・平尾貴四男は二代目平尾賛平の四男、作曲家・歌手の平尾昌晃(出生名・勇)は二代目平尾賛平の孫、ともに慶應義塾出身である。聚泉の著書『昭和泉譜』は、のちの1974年(昭和49年)に『古貨幣図録・昭和泉譜』(歴史図書社)として復刊した。 参考書籍
関連事項
脚注
外部リンク
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