平尾聚泉
平尾 聚泉(ひらお しゅうせん、1874年8月8日[1] - 1943年2月14日)は、日本の実業家である。「レート化粧料」で知られる大正時代から昭和初年にかけて名を馳せた化粧品メーカー「平尾賛平商店」の2代目社主であり、二代目平尾賛平(ひらお さんぺい)を襲名。本名平尾貫一[2][1]。別名に平尾太郎(ひらお たろう)、「聚泉」は古銭蒐集家としての雅号である。紺綬褒章を受章した。 人物・来歴1874年(明治7年)東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に生まれる。父は静岡出身で、1878年(明治11年)、東京市日本橋区馬喰町1丁目6番地(現東京都中央区日本橋馬喰町1-丁目)で化粧品店を開業、「小町水」で知られる「平尾賛平商店」の創立者・初代平尾賛平である[3][4]。 1891年(明治24年)、慶應義塾在学中に、父の新製品「ダイヤモンド歯磨」の命名をし、ヒット商品となる[4]。1893年(明治26年)、慶應義塾正科を卒業した[4][2] 。 1898年(明治31年)1月、初代平尾賛平が死去、社長に就任、二代目平尾賛平を襲名する[4]、同年6月、東京市日本橋区の明治座での新狂言公演『児雷也豪傑譚語』で、児雷也役の九代目市川團十郎の背景に、商品名「日本美人」の看板のある錦絵広告を出した[5]。平尾は、広告が重要、広告に工夫が必要と考え、積極的に展開した。 1908年(明治41年)には大阪に平尾賛平商店の支店を出して関西に進出した。同年、「ダイヤモンド歯磨」を「金剛石牙粉」と中国語で表記し、中国大陸にも進出、北京、天津、香港にも多数の幟旗を携えた「広告隊」を出した[6]。1918年(大正7年)、クリームと白粉をセットした画期的商品「レートメリー」を発売、明治末年から大正期にかけて、同社の「レート化粧料」(LAIT TOILET)は、大阪の中山太陽堂の「クラブ化粧品」と人気を競い、「東のレート、西のクラブ」と称された[5]。昭和初年には、朝鮮半島の京城(現在のソウル特別市)にも進出、現地紙『東亜日報』にハングル交じりの広告を打ち、京城三越百貨店(現新世界百貨店)のある中心街の忠武路に「レートクレーム」(クレーム = Crème、フランス語)と大書した巨大な広告塔を建てた。 平尾は古銭蒐集家「平尾聚泉」としても知られ、自らの財力で新聞に広告を打って募集し古銭を買い集めた。1932年(昭和7年)、聚泉は『昭和泉譜』を著し、同書は、42年を経たのちの1974年(昭和49年)に『古貨幣図録・昭和泉譜』(歴史図書社)として復刊した。1938年(昭和13年)、平尾賛平商店の創業60周年を記念し、古銭を模した記念メダルを発行する。聚泉の古銭を所蔵する邸宅は「平尾麗悳莊」として知られ、多くの和綴の古銭拓本を制作した。 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)、平尾は「平尾賛平商店」を「レート」に商号変更したが、5年後の1954年(昭和29年)、会社更生法の申請が認められず、廃業に追い込まれた。 現代音楽の作曲家・平尾貴四男は二代目平尾賛平の四男、作曲家・歌手の平尾昌晃(出生名・勇)は二代目平尾賛平の孫、ともに慶應義塾出身である。 おもなビブリオグラフィ
関連事項
参考書籍
註
外部リンク
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