平塚武二平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 1971年3月1日)は、日本の児童文学作家。代表作に「風と花びら」「太陽よりも月よりも」「玉むしのずしの物語」などがある[1]。 経歴1904年(明治37年)7月24日、父・平塚福太郎、母・ハナの二男として、神奈川県横浜市中区末吉町に生まれる[2][注釈 1]。1911年(明治44年)4月、横浜市立南吉田尋常高等小学校に入学。翌年、中区本牧三の谷に転居し、横浜市立本牧尋常高等小学校に転校する。1915年(大正4年)、平塚定吉、タケに養子縁組みする。1917年(大正6年)4月、神奈川県立第二中学校(現:翠嵐高校)に入学[2]。1919年(大正8年)4月、東京の市立荏原中学校(現:日本体育大学荏原高等学校)に転入する。1922年(大正11年)、青山学院高等部予科に入学。1927年(昭和2年)、青山学院高等部英文科を卒業。卒論のテーマはオスカー・ワイルド。松永延造の知遇を得て指導を受ける[2]。 1928年(昭和3年)、父親の死を受けて家を出て、東京牛込に下宿して翻訳などして過ごす。1929年(昭和4年)、岡田三郎より浜田広介を紹介される[3]。雑誌『太陽』の編集者高梨菊二郎の紹介により鈴木三重吉の知遇を得、赤い鳥社に入社、三重吉の助手として働く[2]。その後、休刊中の雑誌『赤い鳥』の復刊に向けて、与田凖一、豊田三郎らと共に準備にあたる。1931年(昭和6年)1月、『赤い鳥』は復刊され、7月号に処女作「魔法のテイブル」が掲載されるも、三重吉との確執から赤い鳥社をやめ、中外商業新報社(現:日本経済新聞)に入社、横浜港海事記者クラブに詰めることとなる[3][4]。 1935年(昭和10年)9月15日、久住勝江と結婚。1938年(昭和13年)9月、病気のため中外商業新報社を退社し入院する。1939年(昭和14年)8月、療養所を退院して自宅療養となる。翌年4月、東京市発行の「隣組月報」の編集長となる(11月まで)。8月、奈街三郎、片山昌造らと同人誌「岩塩」を発行、作品を発表する[3]。 1942年(昭和17年)、書き下ろしの童話集『風と花びら』を刊行する。翌年、童話集『海のふるさと』『歌とおどり』を刊行する。1944年(昭和19年)1月、長男が生まれる。9月、静岡県駿東郡の足柄山麓に疎開する。1945年(昭和20年)9月、日本児童文学者協会の設立準備委員となる。翌年3月に設立され協会の常任委員となる。[3]。 1947年(昭和22年)2月、横浜市磯子区間坂に転居する。長編童話『太陽よりも月よりも』が刊行される。翌年には「ウィザード博士」「ヨコハマのサギ山」「ミスター・サルトビ」「玉むしのずしの物語」などを発表、1949年(昭和24年)には「カラス・カンザブロウ」「パパはのっぽでボクはちび」を雑誌で連載[3]。また同じ頃、長崎源之助、佐藤さとる、いぬいとみこらの指導にあたり、同人誌『豆の木』発刊の後ろ盾となる[4]。 1950年(昭和25年)1月、童話集『からすカンザブロウ』刊行。また、一年生用の国語教科書に「ダイコンとニンジン」「なきごえ」「ほし」が、六年生用に「玉むしのずしの物語」がそれぞれ採録される[3]。 その後、「ヨシタカの生れた年」(1951年)、「いろはのいそっぷ」(1953年)、「馬ぬすびと」「ピューンの花」「すてきなサーカス」(1955年)、「うずまき丸」(1956年)、「魔女の時代」(1961年)などの作品を発表、NHKの放送劇として『スプーン君』(1951年)、『小さいかわいいおばあさん』(1953年)、『ポン坊や』(1957年)なども書く[3]。 1964年(昭和39年)、長年の児童文学における業績に対し、第13回横浜文化賞を受賞[3][5]。 1971年(昭和46年)2月10日、心臓発作を起こし横浜の鈴木病院に入院。2月28日、病状が悪化し、翌日心臓衰弱により死去。66歳没。戒名は本行院法修日武居士。6月、雑誌『日本児童文学』で平塚武二特集号が発行される。翌年、童心社より『平塚武二童話全集』(全6巻)が刊行される[2]。 1980年(昭和55年)、平塚武二の作品を原作とした太田大八の絵本『絵本玉虫厨子の物語』が絵本にっぽん賞を受賞[6]。 著書画家については「絵:」の後に名前で統一した。書名・出版社名などは国立国会図書館NDL ONLINEのデータに準じた。書名が同じでも出版社や絵の担当が異なる場合は別扱いにした。原作者が表記されていない場合は()で補った。 単著
全集など
翻訳・再話・伝記など
参考文献脚注注釈出典
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